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	<title type="text">ケニア通信</title>
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	<updated>2012-05-21T14:07:15+09:00</updated>
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		<title>取り上げられなかったテーマ、そして３年間のケニア生活の総括</title>
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		<published>2007-09-27T00:00:00+09:00</published>
		<updated>2007-09-28T08:15:20+09:00</updated>
		<category term="ケニア通信" label="ケニア通信" />
		<author>
			<name>satoru</name>
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		<summary type="html" xml:base="http://www.tsuko40.com/xforum/" xml:lang="ja">最終回となる今回は、まず、これまでケニア通信に取り上げたいと思ったものの諸般の事情で取り上げられなかったテーマについて一言触れたい。その後、ケニアで過ごした３年間を小生なりに総括して、ケニア通信の締めくくりとしたい。ケニアは魅力溢れる国であり、日本との関係も深いことから、ケニア通信で取り上げるテーマに困ることはなかった。むしろ、取り上げたかったのに諸般の事情で実現しなかったテーマが少なからずあるので、それらを見所、人物、事柄の順に手短に紹介しておきたい。「見所」として取材を始めたものの、取り上げることを断念したのは「アフリカ大地溝帯（African Great Rift Valley）」である。アフリカ大地溝帯はアフリカ東部を北から南に縦断する巨大な渓谷で、地球の裂け目とも言われる。ケニアでは北西部のツルカナ湖からほぼ真南方向に大地溝帯が貫いており、ナイロビから西北に50km余りドライブすると大地溝帯の展望地点（ヴュー・ポイント）に行ける。この展望地点から肉眼で大地溝帯を見下ろすと、その深さや幅の広さを実感でき、今も働いている東アフリカを東西に分離しようとする力が今後も続けば、数十万年〜数百万年後にはアフリカ大陸が大地溝帯で分裂してしまうという説にも肯けた。しかし、写真ではどうしても大地溝帯の凄さを写し出せず、また、この展望地点以外で大地溝帯の良い写真を撮れる場所もなかったので、結局、取り上げることを断念した。所詮、２次元の写真では大地溝帯の３次元の凄さを捉えることが困難ということであろう。なお、アフリカ大地溝帯は地質学上の研究対象となっているだけでなく、人類学者によって人類誕生の地としても大いに注目されていることを付言しておきたい（左上の写真は「大地溝帯の展望地点の看板」、右上と左下は「展望地点から見下ろした大地溝帯の景色」。クリックすれば少しは大地溝帯らしさが分かるかも）。青い湖水と茶色の湖岸との対比が美しく、世界自然遺産でもある「ツルカナ湖」も取り上げたかった見所である。ただ、ツルカナ湖周辺は武装強盗団が出没する危険な地域として我が大使館の渡航情報で実質的に訪問禁止としているため、小生が訪問するわけにはいかなかった。ゾウの棲息地として有名な「ツァボ国立公園」も取り上げるべき見所であったが、ケニアに行ってから何度もゾウは自然破壊の元凶と聞かされたので、ツァボに行く気を失った。しかし、帰国寸前にツァボで17年間ゾウの研究を続けている中村千秋さんにお会いした所、「大使、それは偏見に満ちた短絡的な考えで、ゾウが可哀相です」と諭され、今では行けば良かったとも思っている（右の写真は「自然破壊の元凶か否か議論のあるゾウの群れ」）。「人物」で取り上げられなかったのは在留邦人の３人の方々である。下の写真左の「小林俊一さん」はケニアの長距離ランナーを発掘して、日本の学校や企業に斡旋・紹介するコーディネーターの仕事をされている。1977年にケニアに住み始めてから30年間、ワキウリやワイナイナのようなオリンピックのメダリストを初めとして、数多くの優秀なランナーを発掘されている（写真は横須賀高校同窓会HPより拝借したもの）。真ん中の写真の「岸田袈裟さん」は1973年に食物栄養学の調査で最初にケニアを訪問し、その後、1975年から結婚してケニアに定住、85年にはNGO「少年ケニアの友」を立ち上げ、ケニアの貧困層の生活支援や生活改善指導を続けられている。彼女は日本の遠野のかまどをケニアのエンザロ村に紹介し、貴重な薪の使用効率を飛躍的に高めるとともに、生水を飲んで死ぬことの多かった赤ちゃんの死亡率を激減させたという貢献で良く知られている。右の写真の「関亨さん」は日本の一流企業の社員であったが、1972年に奥様に連れられてケニアに来られた。81年に「日本人倶楽部」と称する日本人のための社交クラブ兼和食レストランを開業し、持ち前の熱意と研究心でケニアに来る日本人が必ず立ち寄るほど美味しくて人気が高いレストランにされた。83年にケニアを訪問された皇太子ご夫妻（今の天皇陛下ご夫妻）も関さんが作った料理をお召し上がりになった由である。これらの方々の取り上げ断念の理由は、小林さんと岸田さんについては活動の現場であるケニアの地方に取材に行く時間が取れなかったこと、関さんについては数年前に日本人倶楽部を譲渡されたのでオーナー料理長の姿を取材できなかったことによる。「事柄」で取り上げられなかったのは、まず「円借款（円ベースの低利融資）」による対ケニア経済援助である。円借款は国際協力銀行(JIBIC)を通じて主として運輸、電力、通信などの経済インフラ建設向けに供与されている。ケニアはサブサハラ・アフリカで最初かつ最大の円借款供与国であり、1973年以来、合計31件の案件に対して1843億円の円借款が承諾されている。案件の中にはモンバサ空港整備、新ニヤリ橋建設など日本の評判を高めたインフラ建設事業も多く、現在はソンドゥ・ミリウ水力発電所の建設事業が進行中である。小生はいくつかの円借款プロジェクト・サイトを訪問したものの、良い写真を取るチャンスがなかったため、取り上げることを断念した。次に、「ケニア人の物の考え方、価値観、宗教、社会的慣習、風俗や習慣、各部族の特徴」といった事柄も取り上げられなかった。これらは興味深いテーマであるが、抽象的で、写真を駆使してヴィジュアルに現地を紹介するというケニア通信の基本的手法に馴染まなかったため、取り上げを断念した。（下の写真は、左から「岩元JIBICナイロビ事務所長」、「新ニヤリ橋」、「建設中のソンドゥ・ミリウ水力発電所」で、後の2枚の写真は岩本所長から拝借したものである。）さて、ここから３年間のケニア生活の総括に移り、いくつかの感想や思いを記してみたい。第１に、小生にとってアフリカは全く予想外で未知の任地であったため、多少の不安を抱いて赴任したが、住んでみるとケニアは気候に恵まれた暮らしやすく魅力的な地であり、仕事も「国造りを手伝う」というやりがいのあるものであった。全体として公私ともに充実してやりがいがある楽しい３年間を送ることができ、今では一度しかない人生において、このように得がたい機会が与えられたことに感謝している。第２に、この３年間、ケニアは政治面でも経済面でも大きな前進を示し、こういう良い時期に大使を務められたことは誠に好運であった。小生が着任したのは2004年9月初めであるが、それは24年間も続いたモイ前大統領による独裁・専制・腐敗政権からキバキ現大統領の政権に交代して1年9ヵ月が経過した時であった。キバキ政権は経済再生戦略に沿って様々な政治・社会・経済改革を実施し、人権や表現の自由を尊重しながら腐敗防止のための様々な措置も導入し、モイ政権末期に低迷していたケニア経済を6%台の経済成長を達成するまでに回復させた。ケニアには依然として所得・資産の格差は大きいという問題はあるものの、３年間の在任中に新しいビルが次々と建ち、レストランの新規オープンが続き、人々の暮らしが目に見えて改善している様子を見ることができたのは嬉しいことであった。第３に、この３年間、ケニアを初めとする管轄国の要人、ケニア駐在の各国大使、在留邦人、当地への訪問客など実に多くの人々に出会い、交友を深めることができた。こうした多様・多彩な人々との交流を通じて学ぶことも多く、誠に有意義で楽しかった。ケニアで出会った方々を個々に紹介することは困難ではあるが、特に印象深く、お世話にもなった数人の管轄国の要人についてのみ、小生と一緒に撮った写真を掲載して、敬意と謝意を示しておきたい。【左の写真は「現実的で強力なリーダー振りが印象的だったカガメ・ルワンダ大統領で、昨年秋には彼の訪日が実現した」、右は「日本びいきで、日・ケニアの友好関係強化に格別の貢献をしてくれたマータイ前環境副大臣との最後のお別れ時」。下の写真はいずれも仲良しだったケニアの閣僚で、左から「ケニアに関する小生にとってのメンター（先生）とも言うべきムイラリア前財務（現環境）大臣」、「小生のために特別に送別昼食会を主催してくれたトゥジュ外務大臣」、「公邸での天皇誕生日レセプションに主賓で参加してくれたキツイ貿易産業大臣」である。】第４に、事前に大使館と在留邦人との関係改善が必要との忠告を受けており、着任と同時に「お客様本位の（Client−orientedな）大使館」を目指す方針を示し、館員とともに、大使館に来る方々に対して迅速かつ親切な対応を心掛けるとともに、日本人会の行事などにも積極的に参加することとした。このお陰で、大使館と在留邦人社会との関係は大幅に改善され、在留邦人社会の一体感も高まった。治安の悪いケニアで、この３年間、事件や事故で死亡したり、回復不能の怪我を負ったりした日本人が皆無であった背景には、在留邦人の間でしっかりと治安や生活情報を共有できていたこともあると思っている。また、小生にとって在留邦人との方々とのお付合いは公務に追われる忙しい日々の中での「オアシス」であり、ゆっくりとリラックスできるリフレッシュの良い機会でもあった（右の大写しの写真は「日本人会有志による小生夫妻の送別パーティ終了時の集合写真」）。第５に、アフリカ全体について一言記せば、多くの日本人はアフリカを「紛争、貧困、飢餓、エイズ、低成長等にあえぐ救いようがない大陸」と見ていると思うが、近年のアフリカは必ずしもそうではない。全体として紛争やそれに伴う難民は減少しており、経済成長率は5%以上を記録している。こうした平和と繁栄に向けた前進の背景には、良好な外部環境もあろうが、いわゆる「アフリカン・ルネッサンス」の考え方がアフリカ諸国に徐々に浸透・定着しつつあるという大きな潮流も感じられる。「アフリカン・ルネッサンス」というのは21世紀をアフリカ再生の世紀にするために1990年代後半に南アフリカのムベキ現大統領（当時は副大統領）が提唱した考え方で、そのエッセンスは「アフリカ自身のオーナーシップにより、紛争・独裁・汚職・貧困などに代表される古いアフリカを改革し、民主主義・政治的安定・良好なガバナンスと汚職の追放・市場原理に基づく経済運営などによる国造りによって、新しいアフリカを目指す」というものである。小生としてはアフリカ諸国の自助努力と先進国の適切な支援により、新しいアフリカを目指す潮流が本格化し、アフリカが「救いようがない大陸」から「明るい方向に動き出した希望と可能性を秘めた大陸」に変貌することを心から期待しつつ、離任した次第である（左の写真は「アフリカン・ルネッサンスの提唱者であるムベキ南アフリカ大統領」で、ウィキペディアより拝借したもの）。まだ書きたいことや書き残したことがあるものの、以上で小生のケニア生活３年間の総括としたい。最後に、ケニア通信を終えるに当たり、小生の注文に応じてケニア通信のブログを作り、トラブルには直ちに対応してくれたWebマスターの栗山君、小生の取材に快く応じてくれたケニアに住む様々な方々、いつもセンス溢れるコメントを送り、励ましてくれたskyblueさんやatoriperlaさん、そして当初の頃に比して長文化が著しいケニア通信を忍耐強く最後まで読んでくれた読者の皆様に心から御礼を申し上げたい。ケニア通信により、皆様のケニアやアフリカに対する関心が少しでも高まり、アフリカに関わる問題により目を向けたり、現地を訪問したりする方々が増加すれば、望外の幸せである。（完）      </summary>
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<![CDATA[<div>最終回となる今回は、まず、これまでケニア通信に取り上げたいと思ったものの諸般の事情で取り上げられなかったテーマについて一言触れたい。その後、ケニアで過ごした３年間を小生なりに総括して、ケニア通信の締めくくりとしたい。<br /><br />ケニアは魅力溢れる国であり、日本との関係も深いことから、ケニア通信で取り上げるテーマに困ることはなかった。むしろ、取り上げたかったのに諸般の事情で実現しなかったテーマが少なからずあるので、それらを見所、人物、事柄の順に手短に紹介しておきたい。<br /><br /><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/668.jpg"><span class="blogleft"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/668.jpg" alt="" /></span></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/669.jpg"><span class="blogright"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/669.jpg" alt="" /></span></a>「見所」として取材を始めたものの、取り上げることを断念したのは「アフリカ大地溝帯（African Great Rift Valley）」である。アフリカ大地溝帯はアフリカ東部を北から南に縦断する巨大な渓谷で、地球の裂け目とも言われる。ケニアでは北西部のツルカナ湖からほぼ真南方向に大地溝帯が貫いており、ナイロビから西北に50km余りドライブすると大地溝帯の展望地点（ヴュー・ポイント）に行ける。この展望地点から肉眼で大地溝帯を見下ろすと、その深さや幅の広さを実感でき、今も働いている東アフリカを東西に分離しようとする力が今後も続けば、数十万年〜数百万年後にはアフリカ大陸が大地溝帯で分裂してしまうという説にも肯けた。しかし、写真ではどうしても大地溝帯の凄さを写し出せず、また、この展望地点以外で大地溝帯の良い写真を撮れる場所もなかったので、結局、取り上げることを断念した。所詮、２次元の写真では大地溝帯の３次元の凄さを捉えることが困難ということであろう。なお、アフリカ大地溝帯は地質学上の研究対象となっているだけでなく、人類学者によって人類誕生の地としても大いに注目されていることを付言しておきたい（左上の写真は「大地溝帯の展望地点の看板」、右上と左下は「展望地点から見下ろした大地溝帯の景色」。クリックすれば少しは大地溝帯らしさが分かるかも）。<br /><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/670.jpg"><span class="blogleft"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/670.jpg" alt="" /></span></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/671.jpg"><span class="blogright"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/671.jpg" alt="" /></span></a>青い湖水と茶色の湖岸との対比が美しく、世界自然遺産でもある「ツルカナ湖」も取り上げたかった見所である。ただ、ツルカナ湖周辺は武装強盗団が出没する危険な地域として我が大使館の渡航情報で実質的に訪問禁止としているため、小生が訪問するわけにはいかなかった。<br />ゾウの棲息地として有名な「ツァボ国立公園」も取り上げるべき見所であったが、ケニアに行ってから何度もゾウは自然破壊の元凶と聞かされたので、ツァボに行く気を失った。しかし、帰国寸前にツァボで17年間ゾウの研究を続けている中村千秋さんにお会いした所、「大使、それは偏見に満ちた短絡的な考えで、ゾウが可哀相です」と諭され、今では行けば良かったとも思っている（右の写真は「自然破壊の元凶か否か議論のあるゾウの群れ」）。<br /><br />「人物」で取り上げられなかったのは在留邦人の３人の方々である。下の写真左の「小林俊一さん」はケニアの長距離ランナーを発掘して、日本の学校や企業に斡旋・紹介するコーディネーターの仕事をされている。1977年にケニアに住み始めてから30年間、ワキウリやワイナイナのようなオリンピックのメダリストを初めとして、数多くの優秀なランナーを発掘されている（写真は横須賀高校同窓会HPより拝借したもの）。<br />真ん中の写真の「岸田袈裟さん」は1973年に食物栄養学の調査で最初にケニアを訪問し、その後、1975年から結婚してケニアに定住、85年にはNGO「少年ケニアの友」を立ち上げ、ケニアの貧困層の生活支援や生活改善指導を続けられている。彼女は日本の遠野のかまどをケニアのエンザロ村に紹介し、貴重な薪の使用効率を飛躍的に高めるとともに、生水を飲んで死ぬことの多かった赤ちゃんの死亡率を激減させたという貢献で良く知られている。<br />右の写真の「関亨さん」は日本の一流企業の社員であったが、1972年に奥様に連れられてケニアに来られた。81年に「日本人倶楽部」と称する日本人のための社交クラブ兼和食レストランを開業し、持ち前の熱意と研究心でケニアに来る日本人が必ず立ち寄るほど美味しくて人気が高いレストランにされた。83年にケニアを訪問された皇太子ご夫妻（今の天皇陛下ご夫妻）も関さんが作った料理をお召し上がりになった由である。<br />これらの方々の取り上げ断念の理由は、小林さんと岸田さんについては活動の現場であるケニアの地方に取材に行く時間が取れなかったこと、関さんについては数年前に日本人倶楽部を譲渡されたのでオーナー料理長の姿を取材できなかったことによる。<br /><br /><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/672.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/672.jpg" alt="" /></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/673.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/673.jpg" alt="" /></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/674.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/674.jpg" alt="" /></a><br /><br />「事柄」で取り上げられなかったのは、まず「円借款（円ベースの低利融資）」による対ケニア経済援助である。円借款は国際協力銀行(JIBIC)を通じて主として運輸、電力、通信などの経済インフラ建設向けに供与されている。ケニアはサブサハラ・アフリカで最初かつ最大の円借款供与国であり、1973年以来、合計31件の案件に対して1843億円の円借款が承諾されている。案件の中にはモンバサ空港整備、新ニヤリ橋建設など日本の評判を高めたインフラ建設事業も多く、現在はソンドゥ・ミリウ水力発電所の建設事業が進行中である。小生はいくつかの円借款プロジェクト・サイトを訪問したものの、良い写真を取るチャンスがなかったため、取り上げることを断念した。<br />次に、「ケニア人の物の考え方、価値観、宗教、社会的慣習、風俗や習慣、各部族の特徴」といった事柄も取り上げられなかった。これらは興味深いテーマであるが、抽象的で、写真を駆使してヴィジュアルに現地を紹介するというケニア通信の基本的手法に馴染まなかったため、取り上げを断念した。<br />（下の写真は、左から「岩元JIBICナイロビ事務所長」、「新ニヤリ橋」、「建設中のソンドゥ・ミリウ水力発電所」で、後の2枚の写真は岩本所長から拝借したものである。）<br /><br /><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/675.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/675.jpg" alt="" /></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/676.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/676.jpg" alt="" /></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/677.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/677.jpg" alt="" /></a><br /><br />さて、ここから３年間のケニア生活の総括に移り、いくつかの感想や思いを記してみたい。<br />第１に、小生にとってアフリカは全く予想外で未知の任地であったため、多少の不安を抱いて赴任したが、住んでみるとケニアは気候に恵まれた暮らしやすく魅力的な地であり、仕事も「国造りを手伝う」というやりがいのあるものであった。全体として公私ともに充実してやりがいがある楽しい３年間を送ることができ、今では一度しかない人生において、このように得がたい機会が与えられたことに感謝している。<br /><br />第２に、この３年間、ケニアは政治面でも経済面でも大きな前進を示し、こういう良い時期に大使を務められたことは誠に好運であった。小生が着任したのは2004年9月初めであるが、それは24年間も続いたモイ前大統領による独裁・専制・腐敗政権からキバキ現大統領の政権に交代して1年9ヵ月が経過した時であった。キバキ政権は経済再生戦略に沿って様々な政治・社会・経済改革を実施し、人権や表現の自由を尊重しながら腐敗防止のための様々な措置も導入し、モイ政権末期に低迷していたケニア経済を6%台の経済成長を達成するまでに回復させた。<br />ケニアには依然として所得・資産の格差は大きいという問題はあるものの、３年間の在任中に新しいビルが次々と建ち、レストランの新規オープンが続き、人々の暮らしが目に見えて改善している様子を見ることができたのは嬉しいことであった。<br /><br /><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/682.jpg"><span class="blogleft"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/682.jpg" alt="" /></span></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/681.jpg"><span class="blogright"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/681.jpg" alt="" /></span></a>第３に、この３年間、ケニアを初めとする管轄国の要人、ケニア駐在の各国大使、在留邦人、当地への訪問客など実に多くの人々に出会い、交友を深めることができた。こうした多様・多彩な人々との交流を通じて学ぶことも多く、誠に有意義で楽しかった。<br />ケニアで出会った方々を個々に紹介することは困難ではあるが、特に印象深く、お世話にもなった数人の管轄国の要人についてのみ、小生と一緒に撮った写真を掲載して、敬意と謝意を示しておきたい。<br />【左の写真は「現実的で強力なリーダー振りが印象的だったカガメ・ルワンダ大統領で、昨年秋には彼の訪日が実現した」、右は「日本びいきで、日・ケニアの友好関係強化に格別の貢献をしてくれたマータイ前環境副大臣との最後のお別れ時」。下の写真はいずれも仲良しだったケニアの閣僚で、左から「ケニアに関する小生にとってのメンター（先生）とも言うべきムイラリア前財務（現環境）大臣」、「小生のために特別に送別昼食会を主催してくれたトゥジュ外務大臣」、「公邸での天皇誕生日レセプションに主賓で参加してくれたキツイ貿易産業大臣」である。】<br /><br /><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/679.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/679.jpg" alt="" /></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/678.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/678.jpg" alt="" /></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/680.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/680.jpg" alt="" /></a><br /><br /><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/683.jpg"><span class="blogright"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/683.jpg" alt="" /></span></a>第４に、事前に大使館と在留邦人との関係改善が必要との忠告を受けており、着任と同時に「お客様本位の（Client−orientedな）大使館」を目指す方針を示し、館員とともに、大使館に来る方々に対して迅速かつ親切な対応を心掛けるとともに、日本人会の行事などにも積極的に参加することとした。このお陰で、大使館と在留邦人社会との関係は大幅に改善され、在留邦人社会の一体感も高まった。治安の悪いケニアで、この３年間、事件や事故で死亡したり、回復不能の怪我を負ったりした日本人が皆無であった背景には、在留邦人の間でしっかりと治安や生活情報を共有できていたこともあると思っている。<br />また、小生にとって在留邦人との方々とのお付合いは公務に追われる忙しい日々の中での「オアシス」であり、ゆっくりとリラックスできるリフレッシュの良い機会でもあった（右の大写しの写真は「日本人会有志による小生夫妻の送別パーティ終了時の集合写真」）。<br /><br />第５に、アフリカ全体について一言記せば、多くの日本人はアフリカを「紛争、貧困、飢餓、エイズ、低成長等にあえぐ救いようがない大陸」と見ていると思うが、近年のアフリカは必ずしもそうではない。全体として紛争やそれに伴う難民は減少しており、経済成長率は5%以上を記録している。こうした平和と繁栄に向けた前進の背景には、良好な外部環境もあろうが、いわゆる「アフリカン・ルネッサンス」の考え方がアフリカ諸国に徐々に浸透・定着しつつあるという大きな潮流も感じられる。<br /><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/684.jpg"><span class="blogleft"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/684.jpg" alt="" /></span></a>「アフリカン・ルネッサンス」というのは21世紀をアフリカ再生の世紀にするために1990年代後半に南アフリカのムベキ現大統領（当時は副大統領）が提唱した考え方で、そのエッセンスは「アフリカ自身のオーナーシップにより、紛争・独裁・汚職・貧困などに代表される古いアフリカを改革し、民主主義・政治的安定・良好なガバナンスと汚職の追放・市場原理に基づく経済運営などによる国造りによって、新しいアフリカを目指す」というものである。<br />小生としてはアフリカ諸国の自助努力と先進国の適切な支援により、新しいアフリカを目指す潮流が本格化し、アフリカが「救いようがない大陸」から「明るい方向に動き出した希望と可能性を秘めた大陸」に変貌することを心から期待しつつ、離任した次第である（左の写真は「アフリカン・ルネッサンスの提唱者であるムベキ南アフリカ大統領」で、ウィキペディアより拝借したもの）。<br />まだ書きたいことや書き残したことがあるものの、以上で小生のケニア生活３年間の総括としたい。<br /><br />最後に、ケニア通信を終えるに当たり、小生の注文に応じてケニア通信のブログを作り、トラブルには直ちに対応してくれたWebマスターの栗山君、小生の取材に快く応じてくれたケニアに住む様々な方々、いつもセンス溢れるコメントを送り、励ましてくれたskyblueさんやatoriperlaさん、そして当初の頃に比して長文化が著しいケニア通信を忍耐強く最後まで読んでくれた読者の皆様に心から御礼を申し上げたい。ケニア通信により、皆様のケニアやアフリカに対する関心が少しでも高まり、アフリカに関わる問題により目を向けたり、現地を訪問したりする方々が増加すれば、望外の幸せである。（完）<br /><br /> <img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/smil3dbd4d4e4c4f2.gif" alt="" />  <img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/smil3dbd4d6422f04.gif" alt="" />  <img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/smil3dbd4dbc14f3f.gif" alt="" /> </div>]]>
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		<title>海洋リゾート＋α の魅力を提供する「マリンディ」と「ワタム」</title>
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		<published>2007-09-15T00:00:00+09:00</published>
		<updated>2007-09-17T23:30:59+09:00</updated>
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			<name>satoru</name>
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		<summary type="html" xml:base="http://www.tsuko40.com/xforum/" xml:lang="ja">今回は６月末に訪問したものの、紹介が遅れていた「マリンディ」と「ワタム」を取り上げたい。この両者ともインド洋に面した海洋リゾートのスポットであるが、それに留まらず、それぞれにユニークな見どころも擁している。マリンディはモンバサから120kmほど北にある町で、遠浅の青い海と美しい珊瑚礁で知られている。欧米人、特にイタリア人やドイツ人に人気がある海洋リゾートの場所で、欧州が冬に入るクリスマスから３月にかけては、豊かな太陽の光を求めてやってくる欧州からの観光客で大変な賑わいをみせる。マリンディには15-16世紀にアフリカ東岸有数の港町として栄えた歴史もあり、その歴史的建造物を訪ねる楽しみもある。小生はまずマリンディ海洋国立公園を訪ね、グラスボートで沖合の珊瑚礁に向かった。その日は前日に大雨が降ったため、海水の透明度はいまいちであったが、ボートの底を行き交う熱帯魚を楽しむことができた。なお、マリンディの海が最もきれいなのは８月から翌年の２月頃迄で、３−６月にはマリンディ北部のガラナ川から茶色の泥が流れ出してマリンディの海の透明度を下げるという問題があるようである（左上は「マリンディの海」、右上は「グラスボートから見えた熱帯魚」の写真）。マリンディ国立公園から海岸沿いに北に向かうと、バスコ・ダ・ガマ・クロスと呼ばれる十字塔がある（右の写真）。この塔は南アフリカの喜望峰を回ってマリンディに到着したバスコ・ダ・ガマが、1498年に航海標識として建てたと云われている。塔の先端にある十字架はリスボン産の石で作ったものである。同年、バスコ・ダ・ガマはマリンディからインド西岸のカリカットに船で渡った。これが我々が世界史で学んだ「インド航路の発見」で、歴史上の大偉業とされている出来事である。しかし、実際はその当時、この航路はインドとの交易のルートとしてアラブ商人によって日常的に使われていた。バスコ・ダ・ガマがやったことはアラブ系の水先案内人イブン・マジットを雇って、船でカリカットに連れて行ってもらっただけである。世界の歴史がいかにヨーロッパを中心に書かれているかを再認識する思いがした。バスコ・ダ・ガマ・クロスの近くに、ポルトガル教会と呼ばれる小さな教会がある。この教会もバスコ・ダ・ガマが建て、死亡した２人の乗組員を葬ったとの説もある。この説の真偽は不確かだが、1542年にインドに赴くフランシスコ・ザビエルがこの教会に立ち寄ったのは間違いないようだ。マリンディはインド洋貿易を行うムスリムのアラブ商人によって12世紀頃から港町として開発され、15-16世紀に繁栄のピークを迎えた。当時のマリンディのスルタン（君主）や地元住民は来航する人々を大いに歓迎するホスピタリティの精神に溢れており、バスコ・ダ・ガマ一行も熱烈歓迎を受けたようである。マリンディには中国との交流の記録も残っている。15世紀の初めに明の鄭和の艦隊が来航し、彼はその航海記録にマリンディを麻林地と表記して残した。16世紀にはマリンディのスルタンが明代の中国に首の長い動物を送り、中国ではその動物に伝説上の動物である麒麟（キリン）の名を与えた。さらに、かつてアラブ諸国に売られる奴隷の市が開かれていたジャミア・モスクに立つ柱墓（ピラー・ツーム）には回りに中国製の皿が埋め込まれていた。ジャミア・モスクはムスリム教徒以外は立入り禁止なので、外から写真を撮っただけだが、今や中国製の皿は全て研究者によって持ち去られてしまい、柱墓には皿跡のみが残っているとのことであった。マリンディは15-16世紀初めの繁栄の後、アラブ商人の活動が衰えたこと、新たに進出してきたポルトガル商人は活動拠点をモンバサに置いたこと、内乱に敗れたことなどの理由で、長期の衰退に向かい、ケニア独立後に海洋リゾート地として開発される迄は忘れられた漁村となっていた。なお、マリンディには地元の漁民の網にかかった「生きている化石、シーラカンス」を展示している小さな海洋博物館もあった。（下の写真は左から「ポルトガル教会」、「ジャミア・モスクと柱墓(写真中央の焼け焦げたような柱）」、「シーラカンスのはく製(光って見にくいが、こういう写真しか撮れなかった）」）ワタムはモンバサから北に約100km、マリンディからは南に20kmほど行った小さな村である。ワタムの海と珊瑚礁、そして白い砂浜はマリンディ以上に美しいと言われ、近年、欧米の観光客の間で人気がとみに高まっている。小生はタートル・ベイ・ビーチ（亀湾の浜辺）・ホテルに泊まったが、その名が示唆するように、タートル・ベイには１−４月に海亀が卵を産み付けにやって来る。その浜辺の砂は真っ白で、歩くとキュッキュッと音がするほど細かい。残念ながら、今回は海に入る時間は無かったが、ワタムは珊瑚礁の保存状態が良く、海水の透明度も抜群なので、ダイバーの間の人気は極めて高いようである。（下の写真は左から「タートル・ベイ・ビーチ・ホテルから撮影したワタムの海」、「同ホテルにある亀の親子の噴水」、「昼食を摂ったヘミングウェイズ・ホテルから撮影したワタムの海」）ワタムの浜辺のすぐ南側には両岸を豊かなマングローブで覆われたミダ・クリークがあり、浜辺やクリークの後ろにはアラブコ・ソコケ森林保護区が広がっている。これらのマングローブ林や森林保護区は貴重種を含めた鳥(240種)と蝶（260種）の棲息地として知られ、時間があればガイド付きの森林散策ツアーも楽しめる。アラブコ・ソコケ森林保護区の入口には「キペペオ蝶の館」と称する建物がある（右の写真）。この建物は愛知万博のケニア館で紹介された「キペペオ（蝶）・プロジェクト」の本部である。キペペオ・プロジェクトは地元の農民が森林保護区の樹木から採取した蝶のサナギを買い上げて、欧米諸国に輸出するというプロジェクトである。サナギが何時孵（かえ）って蝶になるかは正確に予測できるので、その羽化の日に合わせた誕生日や結婚式用のプレゼントとして人気があるという。プレゼントの箱を開けたら、そこから蝶々が飛び立つというのは、さぞかしロマンティックで美しいことであろう。キペペオ・プロジェクトは地元の農民に森林保護区の樹木から所得を得る方法を提供して、彼らが森林保護区の樹木を伐採することなく大切に保護するようになることを目的としている。キペペオ蝶の館と同じ敷地内の別の建物では、やはり森林保護区の樹木を地元農民に保護してもらう目的で、「蜂蜜や（蜂の巣の成分から作った）ロウソクを作る」とか、「野性の蚕から絹布を作る」ことを地元農民に教えるプロジェクトも進行していた。（下の写真は左から「サナギ」、「サナギから孵って飛び立った蝶（孵ってから飛び立つまで余り時間を要しない）」、「蜂蜜とロウソク」）ワタムの海から4-5km内陸に入り、キペペオ蝶の館から少し奥に入った森の中には、「東アフリカのアンコール・ワット」と称される「ゲディ遺跡」がある。ゲディは現地化したアラブ人（アラブとアフリカの混ざったスワヒリ人？）によって13世紀頃に作られた町で、15 世紀には相当の人口を擁し、明の陶磁器やヴェネチアのガラス製品を輸入して使うなど、繁栄を極めていたようだ。しかし、16世紀に何度か外敵の侵入を受けて破損され、それに加えて井戸の水が涸れてしまったため、17-18世紀にはゲディの町は住民に放棄された。その後、ゲディは森林に覆われ長らく忘れられていたが、1920年代に発見され、以後、徐々に遺跡の発掘調査が行われている。アンコール・ワットを訪れたことがある小生から見ると、ゲディをアンコール・ワットになぞらえるのは笑止千万ではあるものの、ゲディが相当立派な遺跡であることは確かである。ただ、ゲディについてはその存在を記録した歴史的な文書が一切残されていないため、遺跡とその出土品からゲディの町の歴史や人々の暮らしぶりを推測するほかは無く、未だに多くの謎が残されている。（下の写真はいずれもゲディ遺跡で撮影したもので、左から「モスク」、「宮殿」、「遺跡を割るように生えている樹木」）以上がマリンディとワタムの訪問記であるが、最後に一言付け加えれば、本来は両者ともゆっくりと滞在して美しい海や珊瑚礁、あるいは森林散策ツアーなどを楽しむ場所である。小生の今回の訪問は１泊２日という慌しいものであったが、次回は両者を合わせて少なくとも１週間は滞在し、ゆっくりと海洋スポーツも楽しみたいと思った次第である。（追記）小生はほぼ３年間のケニア勤務を終え、８月２１日から帰国しています。でも、９月下旬まで身分は駐ケニア大使のままで外務省に属し、後任への引継ぎ、各方面への挨拶回りや帰朝報告、残務整理などをやることになっています。それに加えて、日本で私生活を再開するための種々の手続きや買物などもあって、それなりに忙しい日々を送っています。ケニアを去る前は実にいろいろな方々から送別会に招かれました。ケニアでこんなにも沢山の友人・知人に囲まれ、それらの方々にお世話になりながら、３年間の生活を送ってきたことを再認識する思いでした。今回はその中でも最もお世話になった在ケニア大使館館員夫妻による送別夕食会の際に撮った写真を、感謝の意を込めて大写しで掲載したいと思います。      </summary>
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<![CDATA[<div>今回は６月末に訪問したものの、紹介が遅れていた「マリンディ」と「ワタム」を取り上げたい。この両者ともインド洋に面した海洋リゾートのスポットであるが、それに留まらず、それぞれにユニークな見どころも擁している。<br /><br /><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/649.jpg"><span class="blogleft"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/649.jpg" alt="" /></span></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/650.jpg"><span class="blogright"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/650.jpg" alt="" /></span></a>マリンディはモンバサから120kmほど北にある町で、遠浅の青い海と美しい珊瑚礁で知られている。欧米人、特にイタリア人やドイツ人に人気がある海洋リゾートの場所で、欧州が冬に入るクリスマスから３月にかけては、豊かな太陽の光を求めてやってくる欧州からの観光客で大変な賑わいをみせる。マリンディには15-16世紀にアフリカ東岸有数の港町として栄えた歴史もあり、その歴史的建造物を訪ねる楽しみもある。<br />小生はまずマリンディ海洋国立公園を訪ね、グラスボートで沖合の珊瑚礁に向かった。その日は前日に大雨が降ったため、海水の透明度はいまいちであったが、ボートの底を行き交う熱帯魚を楽しむことができた。なお、マリンディの海が最もきれいなのは８月から翌年の２月頃迄で、３−６月にはマリンディ北部のガラナ川から茶色の泥が流れ出してマリンディの海の透明度を下げるという問題があるようである（左上は「マリンディの海」、右上は「グラスボートから見えた熱帯魚」の写真）。<br /><br /><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/651.jpg"><span class="blogright"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/651.jpg" alt="" /></span></a>マリンディ国立公園から海岸沿いに北に向かうと、バスコ・ダ・ガマ・クロスと呼ばれる十字塔がある（右の写真）。この塔は南アフリカの喜望峰を回ってマリンディに到着したバスコ・ダ・ガマが、1498年に航海標識として建てたと云われている。塔の先端にある十字架はリスボン産の石で作ったものである。同年、バスコ・ダ・ガマはマリンディからインド西岸のカリカットに船で渡った。これが我々が世界史で学んだ「インド航路の発見」で、歴史上の大偉業とされている出来事である。しかし、実際はその当時、この航路はインドとの交易のルートとしてアラブ商人によって日常的に使われていた。バスコ・ダ・ガマがやったことはアラブ系の水先案内人イブン・マジットを雇って、船でカリカットに連れて行ってもらっただけである。世界の歴史がいかにヨーロッパを中心に書かれているかを再認識する思いがした。<br />バスコ・ダ・ガマ・クロスの近くに、ポルトガル教会と呼ばれる小さな教会がある。この教会もバスコ・ダ・ガマが建て、死亡した２人の乗組員を葬ったとの説もある。この説の真偽は不確かだが、1542年にインドに赴くフランシスコ・ザビエルがこの教会に立ち寄ったのは間違いないようだ。<br />マリンディはインド洋貿易を行うムスリムのアラブ商人によって12世紀頃から港町として開発され、15-16世紀に繁栄のピークを迎えた。当時のマリンディのスルタン（君主）や地元住民は来航する人々を大いに歓迎するホスピタリティの精神に溢れており、バスコ・ダ・ガマ一行も熱烈歓迎を受けたようである。<br />マリンディには中国との交流の記録も残っている。15世紀の初めに明の鄭和の艦隊が来航し、彼はその航海記録にマリンディを麻林地と表記して残した。16世紀にはマリンディのスルタンが明代の中国に首の長い動物を送り、中国ではその動物に伝説上の動物である麒麟（キリン）の名を与えた。さらに、かつてアラブ諸国に売られる奴隷の市が開かれていたジャミア・モスクに立つ柱墓（ピラー・ツーム）には回りに中国製の皿が埋め込まれていた。ジャミア・モスクはムスリム教徒以外は立入り禁止なので、外から写真を撮っただけだが、今や中国製の皿は全て研究者によって持ち去られてしまい、柱墓には皿跡のみが残っているとのことであった。<br />マリンディは15-16世紀初めの繁栄の後、アラブ商人の活動が衰えたこと、新たに進出してきたポルトガル商人は活動拠点をモンバサに置いたこと、内乱に敗れたことなどの理由で、長期の衰退に向かい、ケニア独立後に海洋リゾート地として開発される迄は忘れられた漁村となっていた。なお、マリンディには地元の漁民の網にかかった「生きている化石、シーラカンス」を展示している小さな海洋博物館もあった。<br />（下の写真は左から「ポルトガル教会」、「ジャミア・モスクと柱墓(写真中央の焼け焦げたような柱）」、「シーラカンスのはく製(光って見にくいが、こういう写真しか撮れなかった）」）<br /><br /><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/653.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/653.jpg" alt="" /></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/656.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/656.jpg" alt="" /></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/655.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/655.jpg" alt="" /></a><br /><br />ワタムはモンバサから北に約100km、マリンディからは南に20kmほど行った小さな村である。ワタムの海と珊瑚礁、そして白い砂浜はマリンディ以上に美しいと言われ、近年、欧米の観光客の間で人気がとみに高まっている。小生はタートル・ベイ・ビーチ（亀湾の浜辺）・ホテルに泊まったが、その名が示唆するように、タートル・ベイには１−４月に海亀が卵を産み付けにやって来る。その浜辺の砂は真っ白で、歩くとキュッキュッと音がするほど細かい。残念ながら、今回は海に入る時間は無かったが、ワタムは珊瑚礁の保存状態が良く、海水の透明度も抜群なので、ダイバーの間の人気は極めて高いようである。<br />（下の写真は左から「タートル・ベイ・ビーチ・ホテルから撮影したワタムの海」、「同ホテルにある亀の親子の噴水」、「昼食を摂ったヘミングウェイズ・ホテルから撮影したワタムの海」）<br /><br /><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/657.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/657.jpg" alt="" /></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/658.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/658.jpg" alt="" /></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/666.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/666.jpg" alt="" /></a><br /><br /><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/659.jpg"><span class="blogright"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/659.jpg" alt="" /></span></a>ワタムの浜辺のすぐ南側には両岸を豊かなマングローブで覆われたミダ・クリークがあり、浜辺やクリークの後ろにはアラブコ・ソコケ森林保護区が広がっている。これらのマングローブ林や森林保護区は貴重種を含めた鳥(240種)と蝶（260種）の棲息地として知られ、時間があればガイド付きの森林散策ツアーも楽しめる。<br />アラブコ・ソコケ森林保護区の入口には「キペペオ蝶の館」と称する建物がある（右の写真）。この建物は愛知万博のケニア館で紹介された「キペペオ（蝶）・プロジェクト」の本部である。キペペオ・プロジェクトは地元の農民が森林保護区の樹木から採取した蝶のサナギを買い上げて、欧米諸国に輸出するというプロジェクトである。サナギが何時孵（かえ）って蝶になるかは正確に予測できるので、その羽化の日に合わせた誕生日や結婚式用のプレゼントとして人気があるという。プレゼントの箱を開けたら、そこから蝶々が飛び立つというのは、さぞかしロマンティックで美しいことであろう。<br />キペペオ・プロジェクトは地元の農民に森林保護区の樹木から所得を得る方法を提供して、彼らが森林保護区の樹木を伐採することなく大切に保護するようになることを目的としている。キペペオ蝶の館と同じ敷地内の別の建物では、やはり森林保護区の樹木を地元農民に保護してもらう目的で、「蜂蜜や（蜂の巣の成分から作った）ロウソクを作る」とか、「野性の蚕から絹布を作る」ことを地元農民に教えるプロジェクトも進行していた。<br />（下の写真は左から「サナギ」、「サナギから孵って飛び立った蝶（孵ってから飛び立つまで余り時間を要しない）」、「蜂蜜とロウソク」）<br /><br /><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/660.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/660.jpg" alt="" /></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/661.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/661.jpg" alt="" /></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/662.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/662.jpg" alt="" /></a><br /><br />ワタムの海から4-5km内陸に入り、キペペオ蝶の館から少し奥に入った森の中には、「東アフリカのアンコール・ワット」と称される「ゲディ遺跡」がある。ゲディは現地化したアラブ人（アラブとアフリカの混ざったスワヒリ人？）によって13世紀頃に作られた町で、15 世紀には相当の人口を擁し、明の陶磁器やヴェネチアのガラス製品を輸入して使うなど、繁栄を極めていたようだ。しかし、16世紀に何度か外敵の侵入を受けて破損され、それに加えて井戸の水が涸れてしまったため、17-18世紀にはゲディの町は住民に放棄された。<br />その後、ゲディは森林に覆われ長らく忘れられていたが、1920年代に発見され、以後、徐々に遺跡の発掘調査が行われている。アンコール・ワットを訪れたことがある小生から見ると、ゲディをアンコール・ワットになぞらえるのは笑止千万ではあるものの、ゲディが相当立派な遺跡であることは確かである。ただ、ゲディについてはその存在を記録した歴史的な文書が一切残されていないため、遺跡とその出土品からゲディの町の歴史や人々の暮らしぶりを推測するほかは無く、未だに多くの謎が残されている。<br />（下の写真はいずれもゲディ遺跡で撮影したもので、左から「モスク」、「宮殿」、「遺跡を割るように生えている樹木」）<br /><br /><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/663.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/663.jpg" alt="" /></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/664.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/664.jpg" alt="" /></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/665.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/665.jpg" alt="" /></a><br /><br />以上がマリンディとワタムの訪問記であるが、最後に一言付け加えれば、本来は両者ともゆっくりと滞在して美しい海や珊瑚礁、あるいは森林散策ツアーなどを楽しむ場所である。小生の今回の訪問は１泊２日という慌しいものであったが、次回は両者を合わせて少なくとも１週間は滞在し、ゆっくりと海洋スポーツも楽しみたいと思った次第である。<br /><br /><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/667.jpg"><span class="blogright"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/667.jpg" alt="" /></span></a>（追記）小生はほぼ３年間のケニア勤務を終え、８月２１日から帰国しています。でも、９月下旬まで身分は駐ケニア大使のままで外務省に属し、後任への引継ぎ、各方面への挨拶回りや帰朝報告、残務整理などをやることになっています。それに加えて、日本で私生活を再開するための種々の手続きや買物などもあって、それなりに忙しい日々を送っています。<br />ケニアを去る前は実にいろいろな方々から送別会に招かれました。ケニアでこんなにも沢山の友人・知人に囲まれ、それらの方々にお世話になりながら、３年間の生活を送ってきたことを再認識する思いでした。今回はその中でも最もお世話になった在ケニア大使館館員夫妻による送別夕食会の際に撮った写真を、感謝の意を込めて大写しで掲載したいと思います。<br /><br /><br /> <img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/smil3dbd4d4e4c4f2.gif" alt="" />  <img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/smil3dbd4d6422f04.gif" alt="" />  <img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/smil3dbd4dbc14f3f.gif" alt="" /> </div>]]>
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		<title>ケニアの現地社会に入って国造りを支援している「JICAボランティア」</title>
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		<published>2007-08-03T00:00:00+09:00</published>
		<updated>2007-08-10T03:44:20+09:00</updated>
		<category term="ケニア通信" label="ケニア通信" />
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		<summary type="html" xml:base="http://www.tsuko40.com/xforum/" xml:lang="ja">ケニアでは多くのJICAボランティアが自分の持っている技術や経験を活かして現地の人々とともに暮らし働きながら、ケニアの国造りを支援している。今回はケニアで活躍するJICAボランティアの皆さんを紹介したい。ケニアにおけるJICAボランティアの歴史は古く、その中核をなす青年海外協力隊(JOCV)のケニアへの派遣は1965年に始まった。ケニア政府もJICAボランティアの活動を高く評価しており、昨年12月にはケニアと日本の政府関係者、現役のJICAボランティア、ケニア在住の協力隊OB・OG等が出席して、ケニアへの協力隊派遣40周年を記念する式典が開催された（左の写真）。ケニアに派遣された協力隊員の数は本年7月末までの累計で1278名となり、これは全世界の協力隊派遣国の中で３番目に多い数である。2003年からはシニア海外ボランティア（SV）の派遣も始まり、SVは本年７月末までの累計で19名となった。ケニアで活動中のJICAボランティアは本年7月1日現在で、協力隊員58名、SV７名の計65名である。ボランティアの活動分野は教育文化、スポーツ、職業訓練、商業・観光、保健・医療、社会福祉、農林水産、土木、社会開発、環境など多岐に亘っている。JICAボランティアの応募資格は協力隊員で20-39歳、SVで40-69歳であり、自分の技術や経験を途上国で活かしたいという強い意欲を持つ人が選ばれる。派遣期間は両者とも2年間である。この外に、派遣期間が短い短期ボランティア等も随時、派遣されている。JICAボランティアはケニアに派遣される前に日本国内で語学や技術補完のために2ヶ月間の泊り込み研修を受ける。彼らはケニアに派遣されると、まず、ナイロビ市内のボランティア連絡所（右上の写真）に宿泊し、JICAケニア事務所でオリエンテーションを１週間受ける。同連絡所は相部屋で、蚕棚式の２段ベッドで寝ることになる（左の写真）。その後、JICAボランティアは日本アフリカ文化交流協会（右の写真）に移り、協力隊員は１ヶ月間、SVは2週間、泊り込みでスワヒリ語の研修を受ける。ちなみに、同協会の前身は日本人向けのスワヒリ語学校として有名な星野学校である。JICAボランティアはこうした３ヶ月間前後に及ぶ準備期間を経て、それぞれの任地に赴くことになる。JICAボランティアは着任と離任の際に大使である小生に対する表敬訪問にやってくる。小生も時折ボランティアの活動の視察と激励のためにケニア各地で働く彼らを訪問している。以下では、小生が訪問して話を聞いた何人かのボランティアを紹介することとしたい。なお、紹介は訪問した時点での記録に基づいており、現在では既にケニアを離れたボランティアもいることを予めお断りしておきたい。ナイロビ勤務のJICAボランティアから紹介を始めると、まず、ケニア国立博物館でコンピューターの専門家として働いている青年協力隊員の「小林英之」君である（下の写真、左）。彼は主として同博物館の構内LAN拡張と再構築、新規サーバー導入と設定・利用といったネットワーク関係の仕事を担当している。彼は日本でシステム・エンジニア（SE）であったのでコンピューター関係の豊富な知識と経験を有しており、トラブル・シューターとして、同博物館の同僚のみならず、ケニアに住む全JICA関係者に頼られる存在でもある。彼によると、ケニア人の同僚は高いレベルの知識や技術を有しているものの、応用力が必要なトラブルを処理する経験が欠けており、同僚と一緒に作業をして自分の経験を伝えているとのことであった。ナイロビ国立公園の動物孤児院では、短期ボランティアの「大木奈美」さんが獣医として働いている（同、真ん中）。彼女はかつてマラウィで協力隊員として家畜関係の獣医をしていたこともあり、アフリカは２度目である。5歳の頃からゾウとライオンのお医者さんになりたいとの夢を抱いていたので、今回は正にその夢が叶ったわけである。彼女は6人のケニア人飼育係と一緒に働いているが、真面目で素朴だったマラウィ人と異なり、ケニア人はもっと洗練されていてジョークも上手なので、愉快な付き合いができるとのことであった。ケニア観光局（KTB）では、SVの「吉田攻一」さんが日本の観光市場の分析と戦略の構築を行っている（同、右）。吉田さんは英国系商社や京都府庁で観光関係の仕事をしていた経験を活かして、中央アジアのキルギスで観光業のSVを1年間やった。ただ、1年間ではやり残したことが多く、ケニアでの観光SVを応募した由である。ケニアは観光資源が多く、政府も観光客誘致に熱心なので、仕事はやりがいがあり、楽しいとのことであった。日本向けの戦略は数より質を重視し、余裕のあるベービー・ブーマーや新婚旅行客を主たる対象にする方針とのことである。次にナイロビ近郊に移り、ルイルのケニア刑務所職員訓練校では、SVの「前田政博」さんが柔道を教えている（下の写真、左）。前田さんは福岡県警の出身で、柔道は7段の猛者である。県警退官後、大学で柔道師範をしていたが、電車に乗車中にJICA・SVの吊り広告を見て、柔道で国際貢献をしたいとの強い思いに駆られ、SVを応募した。英語の特訓を受け、健康診断をパスするため10kg減量するといった努力の後、トルコでのSVを経て、ケニアに来た。両国とも親日的で住みやすいが、ケニア人はトルコ人に比してあきらめが早く、根性が足りないとのことであった。なお、前田さんはルイルの少年柔道クラブも指導しており、礼儀や正しい心の大切さを教えている。ティカの更正院では、協力隊員の「大井上啓志」君が野菜栽培を指導している（同、真ん中。なお、以下に登場するボランティアは全て協力隊員であるので肩書きを省略する）。彼は若い内に海外に行きたいとの希望を持っていたので、農大を卒業すると直ちに協力隊を応募してケニアに来た。更正院には様々な背景を持った児童がいるが、分け隔てなく一緒に働いて、児童達から信頼されている。収穫した野菜は更正院内の給食にも使われ、児童の栄養が格段に向上したそうだ。彼は又、児童に体育や美術も教えている。彼自身も苦しんでいる時にケニア人の同僚や児童に助けてもらったり、彼らからコミュニティの大切さを学んだりしているとのことであった。キリマンボコの初等教員養成大学では、「石島裕太」君がコンピューターを教えている（同、右）。彼は日本の大学で理科の教員免許を取得し、大学を卒業後、直ちにケニアに来た。理科を教える筈が、ケニア教育省の急な要請変更に伴い、コンピューターを教えることとなった。悩んだ末に職場の同僚に対して、コンピューターの専門家でないことを告白し、その上で、書物による猛烈な勉強と同僚による支援により、短期間で一人前のコンピューター担当教師となった。彼は英語も含めて全てがチャレンジだが、機会が与えられたことやケニア人が自分を受け入れてくれたことに深く感謝しており、日本では失われつつある人との触合いの大切さを学んでいる由であった。次にナイロビの北西方向に向かうと、フラミンゴで有名なナクル国立公園のKWS（ケニア野生生物公社）で「森川彰」君が生態調査を、「五反田環」さんが環境教育を担当している（左と右の写真）。「森川君」は日本で健康食品の会社の研究員をやっていたが、大学の先輩が協力隊員としてラオスに行ったのに触発されて、協力隊員を応募した。ナクル湖は河川の流入のみで流出のない閉鎖水域であり、その周囲も含めたナクル国立公園はフェンスで囲まれた閉鎖的な生態系を形成している。森川君はこの特異な生態系に生息する動植物の個体数や相関関係を調査し、生息環境を作る雨量や水質の分析するなどの仕事を行っている。彼の功績はこれまで紙に記録されていたデータをコンピューター化したことであり、これによりデータの分析や交換が容易になった。彼は河川の水量の測定中にヒョウに異常接近したといった危ない目に遭ったこともあるが、仕事は楽しくてしょうがないとのことであった。「五反田さん」は日本で専門商社やコンピューター関係の会社に勤務していたが、友人から自然の素晴らしさを教わり、森林インストラクターの資格を取った。その後、途上国の自然を守りたいとの思いが募り、協力隊に応募した。ナクルでは得意のパワーポイントを駆使して公立学校の児童生徒や地域住民に対する環境教育を実施する外、教材や展示物の改訂などを行っている。五反田さんはナクル国立公園内にあるKWSの宿舎に住んでいる。その宿舎にサファリ・アントという物騒な蟻が大量に入り込んで体をあちこち咬まれたとか、バブーン（ヒヒ）に宿舎の水タンクを壊され、中にウンチまでされてしまったとかの痛い経験もしたが、やはり仕事はとても楽しいとのことであった。ナクルから更に西に行ったニャミラ県の保健事務所では、「松岡裕子」さんがエイズ対策のために頑張っている（下の写真、左）。松岡さんは日本の大学時代から社会福祉関係のNGO活動に従事していたが、卒業後も特定NPOに就職して日本に住む外国人の生活をサポートする仕事に携わった。協力隊員は小学校時代からの夢で、今回その夢を叶えてケニアに来たわけである。ニャミラではエイズの予防と治療の両方の活動を担当しており、地域住民に対してエイズに関する正しい知識を普及させる啓発活動を行うとともに、VCTセンター（自発的な相談と検診のための施設）・移動ＶＣＴや感染者のケア・センターでも働いている。やりがいがある仕事だが、ニャミラは人付き合いが余りにも濃密なため、人間関係の難しさに悩むこともある由である。今後は逆に東方向に向かい、インド洋岸のコースト地方に行くと、マリンディ海洋国立公園のKWSで「多賀良太」君が環境教育を担当している（同、真ん中）。多賀君は日本の大学で多様性生物学を初めとする地球環境問題を勉強した後、見識を広めるために協力隊員を応募して、ケニアに来た。彼の前任者は主としてJICAが供与したグラスボートを使って小中学生に環境教育を施していたが、彼はマリンディ国立公園では環境教育以前にやるべきことが少なくないことに気が付いた。例えば、公園のガイド・ブックが無い、KWSの同僚はサファリについては詳しくても海洋生物については無知で、溺れた人の救命法も知らない等である。そこで彼は自発的に、マリンディの海やそこに住む生物のガイド・ブックを作る、救命法のトレーニングを企画するなどの貢献を行っている。やはりコースト地方のワタム海洋国立公園のKWSでは、「戸田佳絵」さんが村落開発普及員として働いている（同、右）。戸田さんはケニアに来る前は日本の専門学校で動物の飼育・調教を勉強していたが、その前にタンザニアに留学していたのでスワヒリ語が話せる。小生が訪問したのは戸田さんがワタムに着任して半年も経っていない時期であったが、得意のスワヒリ語を駆使して既に地元の人々の中に溶け込み、海岸のゴミ拾い運動、マングローブの植林キャンペーンなど様々な活動を手掛けていた。戸田さんのやることはKWS公認のプロジェクトとなるので、地元の人々やホテルの協力が得られやすく、活動は順調に行われているようだ。戸田さんがこれから是非やりたいと思っているのは、地元の人々の収入向上を目指したプロジェクトで、エコバッグ、改良カマド、ビーズ細工の亀の製作など既にいくつかのアイディアを持っている。彼女によると、ワタムの人々は明るいのでとても楽しいとのことであった。スペースの紙面の都合上、ごく一部のJICAボランティアに登場してもらったに過ぎないが、以上でボランティアの紹介を終えたい。最後に小生が彼らを訪問して感じたことをいくつか記しておきたい。第１に、JICAボランティアは何があっても挫けたり、悲壮になったりせずに、明るく乗越えて楽しくやろうとしており、頼もしく感じた。多分、そうした心構えでないとやっていけないのであろう。第２に、彼らはそれぞれに専門知識や経験を有しているが、決して威張ったりせずに、ケニア人の中に入って、ケニア人と同じ目線で物事を見たり考えたりしながら、知識や経験を伝えている。それがJICAボランティアがケニアの人々に受け入れられている理由であると感じた。第３に、多くのJICAボランティアは教えるだけでなく、人との触れ合いの大切さ等、ケニア人から学ぶことも少なくないようである。ともあれ、長年に亘る沢山のJICAボランティアの積み重ねが、ケニアの人々の「日本や日本人についてのイメージ作り」に多大の影響を有していることは間違いない。現在の日本の良いイメージを一層良くし、草の根レベルでも日ケニア友好関係が更に促進されるように、JICAボランティアの今後一層の活躍を大いに期待する次第である（写真はボランティア連絡所で開かれた歓送迎会に撮影したもので、左上は「新入ボランティアの自己紹介」、右上は「帰国ボランティアによる不用品のオークション」である）。 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<![CDATA[<div>ケニアでは多くのJICAボランティアが自分の持っている技術や経験を活かして現地の人々とともに暮らし働きながら、ケニアの国造りを支援している。今回はケニアで活躍するJICAボランティアの皆さんを紹介したい。<br /><br /><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/632.jpg"><span class="blogleft"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/632.jpg" alt="" /></span></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/633.jpg"><span class="blogright"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/633.jpg" alt="" /></span></a>ケニアにおけるJICAボランティアの歴史は古く、その中核をなす青年海外協力隊(JOCV)のケニアへの派遣は1965年に始まった。ケニア政府もJICAボランティアの活動を高く評価しており、昨年12月にはケニアと日本の政府関係者、現役のJICAボランティア、ケニア在住の協力隊OB・OG等が出席して、ケニアへの協力隊派遣40周年を記念する式典が開催された（左の写真）。<br />ケニアに派遣された協力隊員の数は本年7月末までの累計で1278名となり、これは全世界の協力隊派遣国の中で３番目に多い数である。2003年からはシニア海外ボランティア（SV）の派遣も始まり、SVは本年７月末までの累計で19名となった。<br /><br /><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/634.jpg"><span class="blogleft"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/634.jpg" alt="" /></span></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/635.jpg"><span class="blogright"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/635.jpg" alt="" /></span></a>ケニアで活動中のJICAボランティアは本年7月1日現在で、協力隊員58名、SV７名の計65名である。ボランティアの活動分野は教育文化、スポーツ、職業訓練、商業・観光、保健・医療、社会福祉、農林水産、土木、社会開発、環境など多岐に亘っている。<br />JICAボランティアの応募資格は協力隊員で20-39歳、SVで40-69歳であり、自分の技術や経験を途上国で活かしたいという強い意欲を持つ人が選ばれる。派遣期間は両者とも2年間である。この外に、派遣期間が短い短期ボランティア等も随時、派遣されている。<br />JICAボランティアはケニアに派遣される前に日本国内で語学や技術補完のために2ヶ月間の泊り込み研修を受ける。彼らはケニアに派遣されると、まず、ナイロビ市内のボランティア連絡所（右上の写真）に宿泊し、JICAケニア事務所でオリエンテーションを１週間受ける。同連絡所は相部屋で、蚕棚式の２段ベッドで寝ることになる（左の写真）。<br />その後、JICAボランティアは日本アフリカ文化交流協会（右の写真）に移り、協力隊員は１ヶ月間、SVは2週間、泊り込みでスワヒリ語の研修を受ける。ちなみに、同協会の前身は日本人向けのスワヒリ語学校として有名な星野学校である。JICAボランティアはこうした３ヶ月間前後に及ぶ準備期間を経て、それぞれの任地に赴くことになる。<br /><br />JICAボランティアは着任と離任の際に大使である小生に対する表敬訪問にやってくる。小生も時折ボランティアの活動の視察と激励のためにケニア各地で働く彼らを訪問している。以下では、小生が訪問して話を聞いた何人かのボランティアを紹介することとしたい。なお、紹介は訪問した時点での記録に基づいており、現在では既にケニアを離れたボランティアもいることを予めお断りしておきたい。<br /><br />ナイロビ勤務のJICAボランティアから紹介を始めると、まず、ケニア国立博物館でコンピューターの専門家として働いている青年協力隊員の「小林英之」君である（下の写真、左）。彼は主として同博物館の構内LAN拡張と再構築、新規サーバー導入と設定・利用といったネットワーク関係の仕事を担当している。彼は日本でシステム・エンジニア（SE）であったのでコンピューター関係の豊富な知識と経験を有しており、トラブル・シューターとして、同博物館の同僚のみならず、ケニアに住む全JICA関係者に頼られる存在でもある。彼によると、ケニア人の同僚は高いレベルの知識や技術を有しているものの、応用力が必要なトラブルを処理する経験が欠けており、同僚と一緒に作業をして自分の経験を伝えているとのことであった。<br /><br />ナイロビ国立公園の動物孤児院では、短期ボランティアの「大木奈美」さんが獣医として働いている（同、真ん中）。彼女はかつてマラウィで協力隊員として家畜関係の獣医をしていたこともあり、アフリカは２度目である。5歳の頃からゾウとライオンのお医者さんになりたいとの夢を抱いていたので、今回は正にその夢が叶ったわけである。彼女は6人のケニア人飼育係と一緒に働いているが、真面目で素朴だったマラウィ人と異なり、ケニア人はもっと洗練されていてジョークも上手なので、愉快な付き合いができるとのことであった。<br /><br />ケニア観光局（KTB）では、SVの「吉田攻一」さんが日本の観光市場の分析と戦略の構築を行っている（同、右）。吉田さんは英国系商社や京都府庁で観光関係の仕事をしていた経験を活かして、中央アジアのキルギスで観光業のSVを1年間やった。ただ、1年間ではやり残したことが多く、ケニアでの観光SVを応募した由である。ケニアは観光資源が多く、政府も観光客誘致に熱心なので、仕事はやりがいがあり、楽しいとのことであった。日本向けの戦略は数より質を重視し、余裕のあるベービー・ブーマーや新婚旅行客を主たる対象にする方針とのことである。<br /><br /><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/636.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/636.jpg" alt="" /></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/638.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/638.jpg" alt="" /></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/637.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/637.jpg" alt="" /></a><br /><br />次にナイロビ近郊に移り、ルイルのケニア刑務所職員訓練校では、SVの「前田政博」さんが柔道を教えている（下の写真、左）。前田さんは福岡県警の出身で、柔道は7段の猛者である。県警退官後、大学で柔道師範をしていたが、電車に乗車中にJICA・SVの吊り広告を見て、柔道で国際貢献をしたいとの強い思いに駆られ、SVを応募した。英語の特訓を受け、健康診断をパスするため10kg減量するといった努力の後、トルコでのSVを経て、ケニアに来た。両国とも親日的で住みやすいが、ケニア人はトルコ人に比してあきらめが早く、根性が足りないとのことであった。なお、前田さんはルイルの少年柔道クラブも指導しており、礼儀や正しい心の大切さを教えている。<br /><br />ティカの更正院では、協力隊員の「大井上啓志」君が野菜栽培を指導している（同、真ん中。なお、以下に登場するボランティアは全て協力隊員であるので肩書きを省略する）。彼は若い内に海外に行きたいとの希望を持っていたので、農大を卒業すると直ちに協力隊を応募してケニアに来た。更正院には様々な背景を持った児童がいるが、分け隔てなく一緒に働いて、児童達から信頼されている。収穫した野菜は更正院内の給食にも使われ、児童の栄養が格段に向上したそうだ。彼は又、児童に体育や美術も教えている。彼自身も苦しんでいる時にケニア人の同僚や児童に助けてもらったり、彼らからコミュニティの大切さを学んだりしているとのことであった。<br /><br />キリマンボコの初等教員養成大学では、「石島裕太」君がコンピューターを教えている（同、右）。彼は日本の大学で理科の教員免許を取得し、大学を卒業後、直ちにケニアに来た。理科を教える筈が、ケニア教育省の急な要請変更に伴い、コンピューターを教えることとなった。悩んだ末に職場の同僚に対して、コンピューターの専門家でないことを告白し、その上で、書物による猛烈な勉強と同僚による支援により、短期間で一人前のコンピューター担当教師となった。彼は英語も含めて全てがチャレンジだが、機会が与えられたことやケニア人が自分を受け入れてくれたことに深く感謝しており、日本では失われつつある人との触合いの大切さを学んでいる由であった。<br /><br /><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/641.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/641.jpg" alt="" /></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/639.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/639.jpg" alt="" /></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/640.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/640.jpg" alt="" /></a><br /><br /><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/642.jpg"><span class="blogleft"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/642.jpg" alt="" /></span></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/643.jpg"><span class="blogright"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/643.jpg" alt="" /></span></a>次にナイロビの北西方向に向かうと、フラミンゴで有名なナクル国立公園のKWS（ケニア野生生物公社）で「森川彰」君が生態調査を、「五反田環」さんが環境教育を担当している（左と右の写真）。<br />「森川君」は日本で健康食品の会社の研究員をやっていたが、大学の先輩が協力隊員としてラオスに行ったのに触発されて、協力隊員を応募した。ナクル湖は河川の流入のみで流出のない閉鎖水域であり、その周囲も含めたナクル国立公園はフェンスで囲まれた閉鎖的な生態系を形成している。森川君はこの特異な生態系に生息する動植物の個体数や相関関係を調査し、生息環境を作る雨量や水質の分析するなどの仕事を行っている。彼の功績はこれまで紙に記録されていたデータをコンピューター化したことであり、これによりデータの分析や交換が容易になった。彼は河川の水量の測定中にヒョウに異常接近したといった危ない目に遭ったこともあるが、仕事は楽しくてしょうがないとのことであった。<br /><br />「五反田さん」は日本で専門商社やコンピューター関係の会社に勤務していたが、友人から自然の素晴らしさを教わり、森林インストラクターの資格を取った。その後、途上国の自然を守りたいとの思いが募り、協力隊に応募した。ナクルでは得意のパワーポイントを駆使して公立学校の児童生徒や地域住民に対する環境教育を実施する外、教材や展示物の改訂などを行っている。五反田さんはナクル国立公園内にあるKWSの宿舎に住んでいる。その宿舎にサファリ・アントという物騒な蟻が大量に入り込んで体をあちこち咬まれたとか、バブーン（ヒヒ）に宿舎の水タンクを壊され、中にウンチまでされてしまったとかの痛い経験もしたが、やはり仕事はとても楽しいとのことであった。<br /><br />ナクルから更に西に行ったニャミラ県の保健事務所では、「松岡裕子」さんがエイズ対策のために頑張っている（下の写真、左）。松岡さんは日本の大学時代から社会福祉関係のNGO活動に従事していたが、卒業後も特定NPOに就職して日本に住む外国人の生活をサポートする仕事に携わった。協力隊員は小学校時代からの夢で、今回その夢を叶えてケニアに来たわけである。ニャミラではエイズの予防と治療の両方の活動を担当しており、地域住民に対してエイズに関する正しい知識を普及させる啓発活動を行うとともに、VCTセンター（自発的な相談と検診のための施設）・移動ＶＣＴや感染者のケア・センターでも働いている。やりがいがある仕事だが、ニャミラは人付き合いが余りにも濃密なため、人間関係の難しさに悩むこともある由である。<br /><br />今後は逆に東方向に向かい、インド洋岸のコースト地方に行くと、マリンディ海洋国立公園のKWSで「多賀良太」君が環境教育を担当している（同、真ん中）。多賀君は日本の大学で多様性生物学を初めとする地球環境問題を勉強した後、見識を広めるために協力隊員を応募して、ケニアに来た。彼の前任者は主としてJICAが供与したグラスボートを使って小中学生に環境教育を施していたが、彼はマリンディ国立公園では環境教育以前にやるべきことが少なくないことに気が付いた。例えば、公園のガイド・ブックが無い、KWSの同僚はサファリについては詳しくても海洋生物については無知で、溺れた人の救命法も知らない等である。そこで彼は自発的に、マリンディの海やそこに住む生物のガイド・ブックを作る、救命法のトレーニングを企画するなどの貢献を行っている。<br /><br />やはりコースト地方のワタム海洋国立公園のKWSでは、「戸田佳絵」さんが村落開発普及員として働いている（同、右）。戸田さんはケニアに来る前は日本の専門学校で動物の飼育・調教を勉強していたが、その前にタンザニアに留学していたのでスワヒリ語が話せる。小生が訪問したのは戸田さんがワタムに着任して半年も経っていない時期であったが、得意のスワヒリ語を駆使して既に地元の人々の中に溶け込み、海岸のゴミ拾い運動、マングローブの植林キャンペーンなど様々な活動を手掛けていた。戸田さんのやることはKWS公認のプロジェクトとなるので、地元の人々やホテルの協力が得られやすく、活動は順調に行われているようだ。戸田さんがこれから是非やりたいと思っているのは、地元の人々の収入向上を目指したプロジェクトで、エコバッグ、改良カマド、ビーズ細工の亀の製作など既にいくつかのアイディアを持っている。彼女によると、ワタムの人々は明るいのでとても楽しいとのことであった。<br /><br /><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/646.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/646.jpg" alt="" /></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/644.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/644.jpg" alt="" /></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/645.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/645.jpg" alt="" /></a><br /><br /><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/647.jpg"><span class="blogleft"><img 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		<title>アフリカの真珠「ウガンダ」</title>
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		<published>2007-07-07T00:00:00+09:00</published>
		<updated>2007-07-07T05:39:43+09:00</updated>
		<category term="ケニア通信" label="ケニア通信" />
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			<name>satoru</name>
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		<summary type="html" xml:base="http://www.tsuko40.com/xforum/" xml:lang="ja">ウガンダはかつて英国のチャーチル首相が「アフリカの真珠」と呼んで、その美しさを讃えた国である。小生はそのウガンダを訪問外国数でのエージシュート達成の国として選び、先日、２泊３日の旅に出掛けてきたので、その概要を紹介したい。ウガンダはケニアの西隣の内陸国で、国土面積はほぼ本州大、人口は2880万人（2005年）である（左の地図参照）。ヴィクトリア湖やキョガ湖を初めとする湖や河川が多く、豊かな水と緑に恵まれた国である。国土の大部分は海抜1200m程度の平地に近い広大な高原地帯で、気候は温暖で降雨量は多く、土地は肥えている。チャーチルはこのウガンダを「おとぎの国」、「地上の楽園」、「アフリカの真珠」などと絶賛した。ウガンダの国鳥はアフリカで最も美しい鳥と言われる「カンムリヅル」で、国旗にもカンムリヅルが描かれている（右上の国旗参照）。ウガンダには10世紀頃から様々な部族が移住してきて、いくつかの王国が生れたが、19世紀に入るとブガンダ王国が強大となった。19世紀後半から欧諸国が侵入し、英が1898年にブガンダ王国を保護領化した。第２次大戦後、1962年に独立を認められ、1963年にブガンダ王ムテサ?世を大統領とする共和国となった。ところが、1966年にオボテ首相がクーデターを起こしてムテサ?世を追放、それ以降20年もの間、度重なるクーデターにより内政の混乱が続いた。特に1971-79年のアミン大統領はアジア人の追放や反対派の大量虐殺を行った軍事独裁恐怖政治の張本人として国際的にも悪名が高い。このウガンダの混乱は1986年にクーデターで実権を掌握したムセベニ現大統領（右の写真）によって漸く終止符が打たれた。彼は国内に平和と安定をもたらすとともに、国際機関や先進国の支援を得て経済の再建と開発に取り組み、着実に成果を挙げている。昨年やや強引に三選を果たしたが、彼が長期政権に伴う独裁化の過ちに陥らず、ウガンダの更なる発展に向けて引続き指導力を発揮し続けるよう期待したい。小生が今回訪れたのは首都のカンパラと白ナイルの源流の町ジンジャである。最初のカンパラはヴィクトリア湖を見下ろすなだらかな７つの丘からなる町で、平均の海抜は1150mである。人口120万人の近代的な大都会であるが、治安はナイロビより遥かに良好で、昼間なら徒歩で街を歩き回れるのが嬉しかった。カンパラの見所として、まず、挙げられるのは世界文化遺産となっているブガンダ王の墓所である。この墓所はカスビ・ヒルにあり、カバカと呼ばれたブガンダの歴代国王の内、最後の４代の国王が祀られている。この墓所はもともとはここに葬られた最初の国王であるムテサ?世(1835-84)の王宮であり、藁葺き屋根の建物としては世界最大の建物とのことであった。1966年のクーデターで追放されたブガンダの王族は追放後に英国に移り住んでいたが、1993年にムセベニ大統領により復位が図られ、現在はブガンダ地方（ウガンダ南部）の文化的・歴史的な象徴としての役割を果たしている。（下の写真は左から「郊外の丘から見たカンパラ中心部」、「カバカの墓所」、「現在修復中の新しい王宮」）マケレレ大学は1922年に専門学校としてカンパラに設立された東アフリカで最古の名門大学である。同大学はタンザニアのニエレレ初代大統領、ウガンダのオボテ大統領、ケニアのキバキ現大統領など多くのアフリカの指導者を輩出している。そのキャンパスは広大で、現在は学部で３万人、大学院で４千人の学生が勉学に励んでいる（右の写真は「マケレレ大学本部の建物」）。ウガンダ国民の60%がキリスト教徒であり、カンパラの７つの丘の一つであるルガバ・ヒルにはカソリックの教会、ナミレンベ・ヒルにはプロテスタントの教会が建っている。この２つの教会はそれぞれの信者の信仰の中心であるとともに、観光客にも開放されている。また、教会のある丘からはカンパラの町が良く見渡せる。その他のカンパラの見どころとしては、ウガンダ博物館、美術館、国立劇場、国会議事堂などが挙げられるが、必見と言うほどのものではない。（下の写真は左から「ルバガ・ヒルのカソリック教会」、「ナミレンベ・ヒルのプロテスタント教会」、「国会議事堂」）小生の次の訪問地であるジンジャはカンパラから東に80kmほどにあるウガンダ第２の都市である。カンパラから行くとジンジャの手前にナイル川を堰き止めて作った世界最大級の水力発電ダムであるオーウェン・フォール・ダムがある。このダムは残念ながら写真撮影禁止であった。オーウェン・フォールズ・ダムの下流にはブジャガリ滝という高さはないが水量豊かな急流が数本ある（右の写真）。この滝はラフティング（川下り）やカヤックのコースの出発点となっている外、滝の付近にはキャンプ・サイトもあり、ちょっとした観光スポットとなっている。ジンジャでお目当ての見どころである白ナイルの源流へは町から南西に3kmほど離れた「ナイルの源流庭園」から船で行くことができる。その船着場に降りる道の入口には「ナイル川源流の碑」が設置されており、その碑には「この地点はナイル川がウガンダ、スーダン、エジプトを経て地中海に至る長い旅を始める場所を記念している」と記されていた。船着場の手前にはインド独立の英雄で無抵抗主義で名高いガンジーの胸像が建てられていた。ガイドによれば、ガンジーは死後自分を焼いた灰をナイルの源流にも撒くように遺言したので、この胸像が建てられたとのことであった。さて、船着場から小さな船に乗ってナイル川をヴィクトリア湖方向に10分ほど遡ると小さな島と対岸との間に川底からフツフツと水が湧き出ている場所がある。その場所こそが18世紀半ばヨーロッパの何人もの探検家が必死になって捜し求めたナイルの源流である。なるほど、その場所を境にヴィクトリア湖側の水面は静かで動きが無い一方で、反対側では水が緩やかにナイル川に流れ出す動きが見られる。ここで湧き出た水が世界最長である6700kmのナイル川を3ヶ月間かけてアフリカ大陸中北部縦断の旅をして地中海に流れ込んで行くと思うと感無量の思いがする一方で、正直な所、「何だ、こんな所だったのか」という気もしないでもなかった。（下の写真は左から「ガンジーの胸像」、「ナイル源流の碑（クリックすると碑文が読める）」、「ナイルの源流のバックにした小生（クリックすると水が湧き出ている様子が分かるかも」）ナイルの源流庭園の対岸にはスピーク・メモリアル（記念碑）と名付けられた塔が建てられている。ガイドによれば、英国の探検家スピークは様々な苦労の末、1862年7月28日に記念碑が建てられている地点からナイルの源流を発見したとのことであった。なお、対岸にはアンコレ牛と呼ばれる特大の角を持った牛が悠々と草を食べていた。この牛はウガンダで良く飼われている牛で、見かけはともかく、性格は至っておとなしいようである。（下の写真は左から「スピーク・メモリアル」、「スピークの写真」、「アンコレ牛」）ウガンダでは上記の外、日本人の柏田さん（左の写真）が社長をされているフェニックス社を訪問する機会を得た。同社は有機綿の布地やそれを使った最高級のワイシャツ・下着等の製品を製造し、主として欧米諸国に輸出している。柏田社長は２回のウガンダ滞在を合わせると合計で28年間ウガンダに住み、ウガンダ人の社員を訓練して、世界市場に通用する高品質のアパレル製品を作れるようにした熱意と忍耐とヴィジョンをお持ちの企業経営者である。柏田社長のウガンダとの関わりを年表スタイルで整理すれば、「1960年にシャツ・メーカーである日本のヤマト社の社員時代に初めて独立前のウガンダを訪問→1965年にウガンダと合弁でカンパラにシャツの縫製会社ユージルを立ち上げて20年間成功裏に経営→1985年にウガンダ政府の会社経営への過剰介入のため止む無く撤退→1993年にムセベニ大統領から当時ヤマトの副社長であった柏田さんに再度ウガンダに進出するよう強い要請あり（ユージル社はその年に倒産）→相談役になったのを契機に2000年に再進出を決意してフェニックス社を設立し操業開始→2002年にオーガニック・コットン（有機綿）のみを使う方針に切替えて欧米向けの輸出が増加させ現在に至る」となる（右はフェニックス社の縫製作業場）。柏田社長のお話は誠に興味深かったが、スペースの都合上、次の３つのエピソードを紹介するだけに留めたい。?1960年のウガンダ初訪問の際に、ウガンダは当時の日本より豊かな国であることを実感、ウガンダ人は食べ物に困らないのでヤマトの最高級シャツを買っておしゃれを競っていた、?アミンは左傾化しつつあったオボテ政権を覆すために英米が担ぎ出した人物、彼は実は誠実なウガンダ思いの軍人大統領で友人の柏田社長との約束は必ず守った、?アミン大統領が国外に追われた後、カンパラでは略奪の嵐が吹き荒れたが、ウガンダ経済や雇用に多大の貢献をしていた柏田社長の自宅だけは近所のウガンダ人が結束して略奪から守ってくれた。以上が小生夫妻のウガンダ訪問記であるが、ウガンダには雄大で美しい景色の場所がもっと沢山あり、我々が訪問した場所はごく一部に過ぎない。それでも、水と緑に恵まれた環境の中で総じて穏やかでフレンドリーな国民が住むウガンダの魅力を少しは味わうことができた。小生にとってウガンダは60番目に訪問した外国で、冒頭に記したように、現在60歳の小生は訪問外国数のエージシュートを達成することができた。しかし、これでも世界の国の総数192（国連加盟国数）の３分の１にも満たない。訪問国数を増やすことだけを目標にしているわけではないが、好奇心旺盛な小生としては今後とも新たに違った外国を訪問して、多様な世界をもっと良く見たい、知りたいと思っている。（追記）先日、津高40会々員の金谷君と奥様が遥々とケニアに来てくれた。彼らはナイロビの外、アンボセリ国立公園、マサイマラ国立保護区、ナクル湖、ナイバシャ湖とケニアの主要な観光地を見て回り、ヒョウも含めたビッグ・ファイブ（ヒョウも入れるとビッグ・シックスだが）にもしっかりと出会って、サファリを堪能したようである。ただ、サファリのロッジはシャワーしかなく、また、洋食が続くので、金谷君は浴槽と和食が恋しくなった由であった。金谷君とは津高入学から数えて、45年来のお付き合い。その2人が津から遠く離れたナイロビで再会して、来し方・近況・行く末を語れるのは2人が健康であるお蔭であろう。2人は（できれば早足で）歩くことの健康にとっての重要性を論じつつ、ケニアのビールで乾杯した次第である（左の写真。右の写真は「ジラフ・センターでキリンと遊ぶ金谷夫妻」）。      </summary>
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<![CDATA[<div>ウガンダはかつて英国のチャーチル首相が「アフリカの真珠」と呼んで、その美しさを讃えた国である。小生はそのウガンダを訪問外国数でのエージシュート達成の国として選び、先日、２泊３日の旅に出掛けてきたので、その概要を紹介したい。<br /><br /><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/612.gif"><span class="blogleft"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/612.gif" alt="" /></span></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/611.gif"><span class="blogright"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/611.gif" alt="" /></span></a>ウガンダはケニアの西隣の内陸国で、国土面積はほぼ本州大、人口は2880万人（2005年）である（左の地図参照）。ヴィクトリア湖やキョガ湖を初めとする湖や河川が多く、豊かな水と緑に恵まれた国である。国土の大部分は海抜1200m程度の平地に近い広大な高原地帯で、気候は温暖で降雨量は多く、土地は肥えている。チャーチルはこのウガンダを「おとぎの国」、「地上の楽園」、「アフリカの真珠」などと絶賛した。ウガンダの国鳥はアフリカで最も美しい鳥と言われる「カンムリヅル」で、国旗にもカンムリヅルが描かれている（右上の国旗参照）。<br /><br /><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/613.jpg"><span class="blogright"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/613.jpg" alt="" /></span></a>ウガンダには10世紀頃から様々な部族が移住してきて、いくつかの王国が生れたが、19世紀に入るとブガンダ王国が強大となった。19世紀後半から欧諸国が侵入し、英が1898年にブガンダ王国を保護領化した。第２次大戦後、1962年に独立を認められ、1963年にブガンダ王ムテサ?世を大統領とする共和国となった。ところが、1966年にオボテ首相がクーデターを起こしてムテサ?世を追放、それ以降20年もの間、度重なるクーデターにより内政の混乱が続いた。特に1971-79年のアミン大統領はアジア人の追放や反対派の大量虐殺を行った軍事独裁恐怖政治の張本人として国際的にも悪名が高い。<br />このウガンダの混乱は1986年にクーデターで実権を掌握したムセベニ現大統領（右の写真）によって漸く終止符が打たれた。彼は国内に平和と安定をもたらすとともに、国際機関や先進国の支援を得て経済の再建と開発に取り組み、着実に成果を挙げている。昨年やや強引に三選を果たしたが、彼が長期政権に伴う独裁化の過ちに陥らず、ウガンダの更なる発展に向けて引続き指導力を発揮し続けるよう期待したい。<br /><br />小生が今回訪れたのは首都のカンパラと白ナイルの源流の町ジンジャである。最初のカンパラはヴィクトリア湖を見下ろすなだらかな７つの丘からなる町で、平均の海抜は1150mである。人口120万人の近代的な大都会であるが、治安はナイロビより遥かに良好で、昼間なら徒歩で街を歩き回れるのが嬉しかった。<br />カンパラの見所として、まず、挙げられるのは世界文化遺産となっているブガンダ王の墓所である。この墓所はカスビ・ヒルにあり、カバカと呼ばれたブガンダの歴代国王の内、最後の４代の国王が祀られている。この墓所はもともとはここに葬られた最初の国王であるムテサ?世(1835-84)の王宮であり、藁葺き屋根の建物としては世界最大の建物とのことであった。<br />1966年のクーデターで追放されたブガンダの王族は追放後に英国に移り住んでいたが、1993年にムセベニ大統領により復位が図られ、現在はブガンダ地方（ウガンダ南部）の文化的・歴史的な象徴としての役割を果たしている。<br />（下の写真は左から「郊外の丘から見たカンパラ中心部」、「カバカの墓所」、「現在修復中の新しい王宮」）<br /><br /><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/614.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/614.jpg" alt="" /></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/615.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/615.jpg" alt="" /></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/616.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/616.jpg" alt="" /></a><br /><br /><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/617.jpg"><span class="blogright"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/617.jpg" alt="" /></span></a>マケレレ大学は1922年に専門学校としてカンパラに設立された東アフリカで最古の名門大学である。同大学はタンザニアのニエレレ初代大統領、ウガンダのオボテ大統領、ケニアのキバキ現大統領など多くのアフリカの指導者を輩出している。そのキャンパスは広大で、現在は学部で３万人、大学院で４千人の学生が勉学に励んでいる（右の写真は「マケレレ大学本部の建物」）。<br />ウガンダ国民の60%がキリスト教徒であり、カンパラの７つの丘の一つであるルガバ・ヒルにはカソリックの教会、ナミレンベ・ヒルにはプロテスタントの教会が建っている。この２つの教会はそれぞれの信者の信仰の中心であるとともに、観光客にも開放されている。また、教会のある丘からはカンパラの町が良く見渡せる。<br />その他のカンパラの見どころとしては、ウガンダ博物館、美術館、国立劇場、国会議事堂などが挙げられるが、必見と言うほどのものではない。<br />（下の写真は左から「ルバガ・ヒルのカソリック教会」、「ナミレンベ・ヒルのプロテスタント教会」、「国会議事堂」）<br /><br /><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/618.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/618.jpg" alt="" /></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/619.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/619.jpg" alt="" /></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/620.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/620.jpg" alt="" /></a><br /><br /><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/621.jpg"><span class="blogright"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/621.jpg" alt="" /></span></a>小生の次の訪問地であるジンジャはカンパラから東に80kmほどにあるウガンダ第２の都市である。カンパラから行くとジンジャの手前にナイル川を堰き止めて作った世界最大級の水力発電ダムであるオーウェン・フォール・ダムがある。このダムは残念ながら写真撮影禁止であった。<br />オーウェン・フォールズ・ダムの下流にはブジャガリ滝という高さはないが水量豊かな急流が数本ある（右の写真）。この滝はラフティング（川下り）やカヤックのコースの出発点となっている外、滝の付近にはキャンプ・サイトもあり、ちょっとした観光スポットとなっている。<br />ジンジャでお目当ての見どころである白ナイルの源流へは町から南西に3kmほど離れた「ナイルの源流庭園」から船で行くことができる。その船着場に降りる道の入口には「ナイル川源流の碑」が設置されており、その碑には「この地点はナイル川がウガンダ、スーダン、エジプトを経て地中海に至る長い旅を始める場所を記念している」と記されていた。<br />船着場の手前にはインド独立の英雄で無抵抗主義で名高いガンジーの胸像が建てられていた。ガイドによれば、ガンジーは死後自分を焼いた灰をナイルの源流にも撒くように遺言したので、この胸像が建てられたとのことであった。<br />さて、船着場から小さな船に乗ってナイル川をヴィクトリア湖方向に10分ほど遡ると小さな島と対岸との間に川底からフツフツと水が湧き出ている場所がある。その場所こそが18世紀半ばヨーロッパの何人もの探検家が必死になって捜し求めたナイルの源流である。なるほど、その場所を境にヴィクトリア湖側の水面は静かで動きが無い一方で、反対側では水が緩やかにナイル川に流れ出す動きが見られる。<br />ここで湧き出た水が世界最長である6700kmのナイル川を3ヶ月間かけてアフリカ大陸中北部縦断の旅をして地中海に流れ込んで行くと思うと感無量の思いがする一方で、正直な所、「何だ、こんな所だったのか」という気もしないでもなかった。<br />（下の写真は左から「ガンジーの胸像」、「ナイル源流の碑（クリックすると碑文が読める）」、「ナイルの源流のバックにした小生（クリックすると水が湧き出ている様子が分かるかも」）<br /><br /><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/622.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/622.jpg" alt="" /></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/623.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/623.jpg" alt="" /></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/624.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/624.jpg" alt="" /></a><br /><br /><br />ナイルの源流庭園の対岸にはスピーク・メモリアル（記念碑）と名付けられた塔が建てられている。ガイドによれば、英国の探検家スピークは様々な苦労の末、1862年7月28日に記念碑が建てられている地点からナイルの源流を発見したとのことであった。なお、対岸にはアンコレ牛と呼ばれる特大の角を持った牛が悠々と草を食べていた。この牛はウガンダで良く飼われている牛で、見かけはともかく、性格は至っておとなしいようである。<br />（下の写真は左から「スピーク・メモリアル」、「スピークの写真」、「アンコレ牛」）<br /><br /><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/625.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/625.jpg" alt="" /></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/626.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/626.jpg" alt="" /></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/627.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/627.jpg" alt="" /></a><br /><br /><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/628.jpg"><span class="blogleft"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/628.jpg" alt="" /></span></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/629.jpg"><span class="blogright"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/629.jpg" alt="" /></span></a>ウガンダでは上記の外、日本人の柏田さん（左の写真）が社長をされているフェニックス社を訪問する機会を得た。同社は有機綿の布地やそれを使った最高級のワイシャツ・下着等の製品を製造し、主として欧米諸国に輸出している。柏田社長は２回のウガンダ滞在を合わせると合計で28年間ウガンダに住み、ウガンダ人の社員を訓練して、世界市場に通用する高品質のアパレル製品を作れるようにした熱意と忍耐とヴィジョンをお持ちの企業経営者である。<br />柏田社長のウガンダとの関わりを年表スタイルで整理すれば、「1960年にシャツ・メーカーである日本のヤマト社の社員時代に初めて独立前のウガンダを訪問→1965年にウガンダと合弁でカンパラにシャツの縫製会社ユージルを立ち上げて20年間成功裏に経営→1985年にウガンダ政府の会社経営への過剰介入のため止む無く撤退→1993年にムセベニ大統領から当時ヤマトの副社長であった柏田さんに再度ウガンダに進出するよう強い要請あり（ユージル社はその年に倒産）→相談役になったのを契機に2000年に再進出を決意してフェニックス社を設立し操業開始→2002年にオーガニック・コットン（有機綿）のみを使う方針に切替えて欧米向けの輸出が増加させ現在に至る」となる（右はフェニックス社の縫製作業場）。<br />柏田社長のお話は誠に興味深かったが、スペースの都合上、次の３つのエピソードを紹介するだけに留めたい。?1960年のウガンダ初訪問の際に、ウガンダは当時の日本より豊かな国であることを実感、ウガンダ人は食べ物に困らないのでヤマトの最高級シャツを買っておしゃれを競っていた、?アミンは左傾化しつつあったオボテ政権を覆すために英米が担ぎ出した人物、彼は実は誠実なウガンダ思いの軍人大統領で友人の柏田社長との約束は必ず守った、?アミン大統領が国外に追われた後、カンパラでは略奪の嵐が吹き荒れたが、ウガンダ経済や雇用に多大の貢献をしていた柏田社長の自宅だけは近所のウガンダ人が結束して略奪から守ってくれた。<br /><br />以上が小生夫妻のウガンダ訪問記であるが、ウガンダには雄大で美しい景色の場所がもっと沢山あり、我々が訪問した場所はごく一部に過ぎない。それでも、水と緑に恵まれた環境の中で総じて穏やかでフレンドリーな国民が住むウガンダの魅力を少しは味わうことができた。<br />小生にとってウガンダは60番目に訪問した外国で、冒頭に記したように、現在60歳の小生は訪問外国数のエージシュートを達成することができた。しかし、これでも世界の国の総数192（国連加盟国数）の３分の１にも満たない。訪問国数を増やすことだけを目標にしているわけではないが、好奇心旺盛な小生としては今後とも新たに違った外国を訪問して、多様な世界をもっと良く見たい、知りたいと思っている。<br /><br /><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/630.jpg"><span class="blogleft"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/630.jpg" alt="" /></span></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/631.jpg"><span class="blogright"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/631.jpg" alt="" /></span></a>（追記）先日、津高40会々員の金谷君と奥様が遥々とケニアに来てくれた。彼らはナイロビの外、アンボセリ国立公園、マサイマラ国立保護区、ナクル湖、ナイバシャ湖とケニアの主要な観光地を見て回り、ヒョウも含めたビッグ・ファイブ（ヒョウも入れるとビッグ・シックスだが）にもしっかりと出会って、サファリを堪能したようである。ただ、サファリのロッジはシャワーしかなく、また、洋食が続くので、金谷君は浴槽と和食が恋しくなった由であった。<br />金谷君とは津高入学から数えて、45年来のお付き合い。その2人が津から遠く離れたナイロビで再会して、来し方・近況・行く末を語れるのは2人が健康であるお蔭であろう。2人は（できれば早足で）歩くことの健康にとっての重要性を論じつつ、ケニアのビールで乾杯した次第である（左の写真。右の写真は「ジラフ・センターでキリンと遊ぶ金谷夫妻」）。<br /> <img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/smil3dbd4d4e4c4f2.gif" alt="" />  <img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/smil3dbd4d6422f04.gif" alt="" />  <img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/smil3dbd4dbc14f3f.gif" alt="" /> </div>]]>
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		<title>篁採虐拡ルー鵐阿擇屮旅</title>
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		<published>2007-06-02T00:00:00+09:00</published>
		<updated>2007-06-08T23:27:07+09:00</updated>
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			<name>satoru</name>
		</author>
		<summary type="html" xml:base="http://www.tsuko40.com/xforum/" xml:lang="ja">ラム島の旧市街はケニアで世界文化遺産に登録されている唯一の場所である。先日、そのラム島を訪問して、旧市街を観光するとともに、ラム島周辺のクルーズを楽しんできたので、その様子をご紹介したい。小生が見るところ、ケニアには世界遺産に値する多くの場所があるが、ケニア政府が登録申請に熱心でないためか、これまでに世界遺産に登録されているのは、自然遺産としてケニア山国立公園とトゥルカナ湖国立公園群、文化遺産としてラム旧市街の計３箇所に過ぎない。ケニア唯一の文化遺産を擁するラム島はケニア東部のインド洋沿岸に浮かぶ小さな島で、モンバサから約300km北上した地点にある。ラム島から更に北へ約100km行くと、もうソマリア国境に達する。ラム旧市街は14-15世紀にアラブ人が交易のために築いた街である。交易先は当初はアラブ圏であったが、17-19世紀になると、ヨーロッパ、アメリカ新大陸、インド、中国にも拡大し、特に象牙と奴隷の輸出の中継地として大いに栄えた。この繁栄期、特に19世紀にスワヒリ・ハウスと呼ばれるイスラム風の立派な建物が沢山作られた。ちなみに、スワヒリとは、アラブ語で「海岸に住む人」という意味であるが、アラブの影響を受けた東アフリカの文化や言語を指す言葉としても使われる。ラムの繁栄は英国が1873年に奴隷市場の閉鎖を命じたため突然に終止符が打たれた。その後、ラムの経済は急速に縮小し、ラム島は開発にも取り残され忘れられた辺境の島となっていた。しかし、1970年代から観光地として徐々に注目を浴びるようになり、2001年にはラム旧市街がユネスコの世界文化遺産として登録された。小生夫婦はナイロビから軽飛行機で約１時間半飛んで、滑走路のある隣のマンダ島に入り、そこからモーター船に10分間ほど乗ってラム島の港に到着した（右上はラム島をモーター船上から撮った写真）。ラム旧市街は縦1000m、横300mの長方形に収まってしまうほどの小さな地区であり、治安も良いので、容易に徒歩で観光できる。というより、ラム島ではそもそも法令で車の持込みが禁止されていて、地区長官用のジープがたった１台あるだけなので、車の使いようがない。それに、車が通れるほどの広さがある道は海岸沿いの通りだけである。下の最初の２枚の写真はハランベー通りという名のラム旧市街のメイン・ストリートであるが、ご覧のようにリヤカーがようやく通れる程度の広さしかない。ラム島では車が無いので、リヤカーや次の写真のロバが荷物を運ぶ手段となっている。旧市街にはこうした細い路地が迷路のように入り組んでおり、これは侵入者から町を守るためであると言われている。少し前にモロッコとチュニジアに訪れた小生には両国のメディナ（旧市街）を思い出させるものがあり、アラブ人やイスラム教徒の都市作りの好みや伝統を反映していると感じた。なお、タンザニアのザンジバルは同様なイスラム風の旧市街がある東アフリカの島として知られている。旧市街を歩いていると、下の右の写真に見られるような立派な扉の入口を備えた家を数多く見かける。この扉は厚い木板に彫刻を施したものであり、その多くはラム島繁栄期の19世紀に作られたスワヒリ・ハウスの入口の扉である。ラム旧市街の見どころとして挙げられるのは、まず、ラム博物館である。その入口横の庭にはその昔に大英帝国が使った真鍮製の大砲が置かれている（右の写真）。館内の展示物はラム島の文化や歴史を知る上で役に立つものが多い。例えば、東アフリカでも他にない展示物としてスィワと呼ばれる笛の形をした象牙製と真鍮製の楽器もある（下の左の写真）。スィワは長さが5mもあり、支配者のシンボルとしての役割も果たしていたとのことである。次のスワヒリ家屋博物館は18世紀に建てられたスワヒリ・ハウスを博物館にしたものである。展示品としてはベッドや椅子を始めとする家具、中国から輸入した食器類などがあり、当時の豊かな暮し振りをしのぶことができる（下の真ん中の写真）。ラム砦環境博物館は1823年に当時のスルタン（イスラムの領主）によってラムを守る砦として作られたものである。見るべき展示物は少ないが、屋上レベルの回廊や見張り用の塔を含めた建物は大きくて立派である（下の右の写真）。ラム島の住民の大部分はイスラム教徒であり、旧市街には多くのモスクがある。下の左の写真はラムで最も古いプワニ・モスクである。このモスクは14世紀末に建てられたが、外観は普通の建物のようである。下の真ん中の写真はサウジ・アラビアの援助によって建てられたリヤド・モスクであり、小生が見たラム島のモスクの中では最も立派なものであった。ラム島は暑くて湿気も高いためか、島の住民は余り働いている様子がない。その中で最も良く働いているのはロバである。ロバは大人しく文句も言わずに、荷物も人間をも運んでいる。そのロバのために、ラム旧市街には「ロバの聖域」なる施設が作られており、無料でロバの病気や怪我の治療が受けられる（下の右の写真）。ラム旧市街の観光は一日もあれば十分である。このため、ラム島の宿泊ホテルでは当然といった顔つきでダウ船による周辺の海でのクルージングを勧められる。このオプショナル・クルージング・ツアーには若干の選択肢があったが、我々は「マンダ島のマングローブ鑑賞とマンダ小島（マンダ・トト）周辺でのシュノーケリング」と「ラム島シェラの海からの鑑賞とマンダ島のビーチ並びにタクワ遺跡の見学」の２つのツアーを組み合わせることとした。左上の写真は我々が乗った観光用のダウ船である。ダウ船は元々はアラブの帆船であるが、観光用の船は速度や操作性を考慮して、帆を外してモーターで動くようにしている。しかし、クルーズの途中で右上の写真のような昔ながらの本格的なダウ船に何隻も出会った。三角帆に風を受けて走るダウ船の姿は誠に優雅で格好良くて美しかった。ラム島を出てマンダ島に近づくと左の写真のようなマングローブの林が見えてきた。ご承知のように、マングローブは塩水の湿地に育成する熱帯・亜熱帯地方の樹木の総称である。東南アジアでは海老の養殖のためマングローブ林の過剰伐採が問題になっていたが、マンダ島は砂浜となっている場所を除くと周囲を豊かなマングローブ林で覆われている様子で、津波などの災害防止や地球環境保護の観点からとても好ましく感じた。マンダ小島周辺には美しい珊瑚礁があり、潜ると泳ぎ回る色とりどりの美しい熱帯魚を観賞できる。熱帯魚の密度は小生がかつて潜ったことがある沖縄の慶良間諸島付近の海以上ではないかと思われるが、水中カメラが無いので、その様子を写真で読者にお見せできないのは誠に残念である。ラム島には旧市街から南へ３ｋｍほど行ったところにシェラと言う海洋リゾートの町がある。右上の写真の海岸沿いの白い建物はペポニ（天国）・ホテルと言う名の最高級リゾート・ホテルである。シェラには白砂のビーチもあり、シーズンには欧米から沢山の観光客がやって来るとのことであった。シェラを観光ダウ船から眺めながら、我々が上陸したのは、その近くにあるマンダ島のマンダ・ビーチである。そこでは昼食を取るだけで泳ぐ時間は無かったものの、砂浜や海は自然そのもので誠に美しかった（下の左の写真）。次の上陸地点はマンダ島のタクワ遺跡である。タクワには15-17世紀にスワヒリ・タウンがあり、ピーク時には2500名もの人々が住んでいた。しかし、17世紀後半に、住民は何らかの理由で（水不足と推測されている）タクワの町を放棄して、シェラに移住した。遺跡は相当傷んではいるが、下の真ん中の写真のジャマー・モスクやその右の写真のピラー・トゥーム（柱墓）はなかなか立派な建造物であった。また、タクワにはびっくりするほど大きなバオバオの木が生えていたが、それらの木の樹齢はタクワの繁栄期頃にまで遡るとのことであった。小生のラム島訪問記は以上の通りであるが、世界文化遺産のラム旧市街の観光とラム島周辺の海のクルージングという組合せのラム島ツアーは、今後のプロモーション活動次第では、ケニアに一層の観光客を惹きつける潜在力を秘めていると感じた。      </summary>
       <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.tsuko40.com/xforum/">
<![CDATA[<div>ラム島の旧市街はケニアで世界文化遺産に登録されている唯一の場所である。先日、そのラム島を訪問して、旧市街を観光するとともに、ラム島周辺のクルーズを楽しんできたので、その様子をご紹介したい。<br /><br /><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/591.jpg"><span class="blogright"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/591.jpg" alt="" /></span></a>小生が見るところ、ケニアには世界遺産に値する多くの場所があるが、ケニア政府が登録申請に熱心でないためか、これまでに世界遺産に登録されているのは、自然遺産としてケニア山国立公園とトゥルカナ湖国立公園群、文化遺産としてラム旧市街の計３箇所に過ぎない。<br />ケニア唯一の文化遺産を擁するラム島はケニア東部のインド洋沿岸に浮かぶ小さな島で、モンバサから約300km北上した地点にある。ラム島から更に北へ約100km行くと、もうソマリア国境に達する。<br />ラム旧市街は14-15世紀にアラブ人が交易のために築いた街である。交易先は当初はアラブ圏であったが、17-19世紀になると、ヨーロッパ、アメリカ新大陸、インド、中国にも拡大し、特に象牙と奴隷の輸出の中継地として大いに栄えた。この繁栄期、特に19世紀にスワヒリ・ハウスと呼ばれるイスラム風の立派な建物が沢山作られた。ちなみに、スワヒリとは、アラブ語で「海岸に住む人」という意味であるが、アラブの影響を受けた東アフリカの文化や言語を指す言葉としても使われる。<br />ラムの繁栄は英国が1873年に奴隷市場の閉鎖を命じたため突然に終止符が打たれた。その後、ラムの経済は急速に縮小し、ラム島は開発にも取り残され忘れられた辺境の島となっていた。しかし、1970年代から観光地として徐々に注目を浴びるようになり、2001年にはラム旧市街がユネスコの世界文化遺産として登録された。<br />小生夫婦はナイロビから軽飛行機で約１時間半飛んで、滑走路のある隣のマンダ島に入り、そこからモーター船に10分間ほど乗ってラム島の港に到着した（右上はラム島をモーター船上から撮った写真）。<br />ラム旧市街は縦1000m、横300mの長方形に収まってしまうほどの小さな地区であり、治安も良いので、容易に徒歩で観光できる。というより、ラム島ではそもそも法令で車の持込みが禁止されていて、地区長官用のジープがたった１台あるだけなので、車の使いようがない。それに、車が通れるほどの広さがある道は海岸沿いの通りだけである。<br />下の最初の２枚の写真はハランベー通りという名のラム旧市街のメイン・ストリートであるが、ご覧のようにリヤカーがようやく通れる程度の広さしかない。ラム島では車が無いので、リヤカーや次の写真のロバが荷物を運ぶ手段となっている。旧市街にはこうした細い路地が迷路のように入り組んでおり、これは侵入者から町を守るためであると言われている。少し前にモロッコとチュニジアに訪れた小生には両国のメディナ（旧市街）を思い出させるものがあり、アラブ人やイスラム教徒の都市作りの好みや伝統を反映していると感じた。なお、タンザニアのザンジバルは同様なイスラム風の旧市街がある東アフリカの島として知られている。<br />旧市街を歩いていると、下の右の写真に見られるような立派な扉の入口を備えた家を数多く見かける。この扉は厚い木板に彫刻を施したものであり、その多くはラム島繁栄期の19世紀に作られたスワヒリ・ハウスの入口の扉である。<br /><br /><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/594.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/594.jpg" alt="" /></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/595.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/595.jpg" alt="" /></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/596.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/596.jpg" alt="" /></a><br /><br /><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/592.jpg"><span class="blogright"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/592.jpg" alt="" /></span></a>ラム旧市街の見どころとして挙げられるのは、まず、ラム博物館である。その入口横の庭にはその昔に大英帝国が使った真鍮製の大砲が置かれている（右の写真）。館内の展示物はラム島の文化や歴史を知る上で役に立つものが多い。例えば、東アフリカでも他にない展示物としてスィワと呼ばれる笛の形をした象牙製と真鍮製の楽器もある（下の左の写真）。スィワは長さが5mもあり、支配者のシンボルとしての役割も果たしていたとのことである。<br />次のスワヒリ家屋博物館は18世紀に建てられたスワヒリ・ハウスを博物館にしたものである。展示品としてはベッドや椅子を始めとする家具、中国から輸入した食器類などがあり、当時の豊かな暮し振りをしのぶことができる（下の真ん中の写真）。<br />ラム砦環境博物館は1823年に当時のスルタン（イスラムの領主）によってラムを守る砦として作られたものである。見るべき展示物は少ないが、屋上レベルの回廊や見張り用の塔を含めた建物は大きくて立派である（下の右の写真）。<br /><br /><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/593.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/593.jpg" alt="" /></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/597.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/597.jpg" alt="" /></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/598.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/598.jpg" alt="" /></a><br /><br />ラム島の住民の大部分はイスラム教徒であり、旧市街には多くのモスクがある。下の左の写真はラムで最も古いプワニ・モスクである。このモスクは14世紀末に建てられたが、外観は普通の建物のようである。下の真ん中の写真はサウジ・アラビアの援助によって建てられたリヤド・モスクであり、小生が見たラム島のモスクの中では最も立派なものであった。<br />ラム島は暑くて湿気も高いためか、島の住民は余り働いている様子がない。その中で最も良く働いているのはロバである。ロバは大人しく文句も言わずに、荷物も人間をも運んでいる。そのロバのために、ラム旧市街には「ロバの聖域」なる施設が作られており、無料でロバの病気や怪我の治療が受けられる（下の右の写真）。<br /><br /><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/599.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/599.jpg" alt="" /></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/600.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/600.jpg" alt="" /></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/602.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/602.jpg" alt="" /></a><br /><br /><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/604.jpg"><span class="blogleft"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/604.jpg" alt="" /></span></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/605.jpg"><span class="blogright"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/605.jpg" alt="" /></span></a>ラム旧市街の観光は一日もあれば十分である。このため、ラム島の宿泊ホテルでは当然といった顔つきでダウ船による周辺の海でのクルージングを勧められる。このオプショナル・クルージング・ツアーには若干の選択肢があったが、我々は「マンダ島のマングローブ鑑賞とマンダ小島（マンダ・トト）周辺でのシュノーケリング」と「ラム島シェラの海からの鑑賞とマンダ島のビーチ並びにタクワ遺跡の見学」の２つのツアーを組み合わせることとした。<br />左上の写真は我々が乗った観光用のダウ船である。ダウ船は元々はアラブの帆船であるが、観光用の船は速度や操作性を考慮して、帆を外してモーターで動くようにしている。しかし、クルーズの途中で右上の写真のような昔ながらの本格的なダウ船に何隻も出会った。三角帆に風を受けて走るダウ船の姿は誠に優雅で格好良くて美しかった。<br /><br /><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/606.jpg"><span class="blogleft"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/606.jpg" alt="" /></span></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/607.jpg"><span class="blogright"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/607.jpg" alt="" /></span></a>ラム島を出てマンダ島に近づくと左の写真のようなマングローブの林が見えてきた。ご承知のように、マングローブは塩水の湿地に育成する熱帯・亜熱帯地方の樹木の総称である。東南アジアでは海老の養殖のためマングローブ林の過剰伐採が問題になっていたが、マンダ島は砂浜となっている場所を除くと周囲を豊かなマングローブ林で覆われている様子で、津波などの災害防止や地球環境保護の観点からとても好ましく感じた。<br />マンダ小島周辺には美しい珊瑚礁があり、潜ると泳ぎ回る色とりどりの美しい熱帯魚を観賞できる。熱帯魚の密度は小生がかつて潜ったことがある沖縄の慶良間諸島付近の海以上ではないかと思われるが、水中カメラが無いので、その様子を写真で読者にお見せできないのは誠に残念である。<br />ラム島には旧市街から南へ３ｋｍほど行ったところにシェラと言う海洋リゾートの町がある。右上の写真の海岸沿いの白い建物はペポニ（天国）・ホテルと言う名の最高級リゾート・ホテルである。シェラには白砂のビーチもあり、シーズンには欧米から沢山の観光客がやって来るとのことであった。<br />シェラを観光ダウ船から眺めながら、我々が上陸したのは、その近くにあるマンダ島のマンダ・ビーチである。そこでは昼食を取るだけで泳ぐ時間は無かったものの、砂浜や海は自然そのもので誠に美しかった（下の左の写真）。<br />次の上陸地点はマンダ島のタクワ遺跡である。タクワには15-17世紀にスワヒリ・タウンがあり、ピーク時には2500名もの人々が住んでいた。しかし、17世紀後半に、住民は何らかの理由で（水不足と推測されている）タクワの町を放棄して、シェラに移住した。遺跡は相当傷んではいるが、下の真ん中の写真のジャマー・モスクやその右の写真のピラー・トゥーム（柱墓）はなかなか立派な建造物であった。また、タクワにはびっくりするほど大きなバオバオの木が生えていたが、それらの木の樹齢はタクワの繁栄期頃にまで遡るとのことであった。<br />小生のラム島訪問記は以上の通りであるが、世界文化遺産のラム旧市街の観光とラム島周辺の海のクルージングという組合せのラム島ツアーは、今後のプロモーション活動次第では、ケニアに一層の観光客を惹きつける潜在力を秘めていると感じた。<br /><br /><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/608.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/608.jpg" alt="" /></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/609.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/609.jpg" alt="" /></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/610.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/610.jpg" alt="" /></a><br /> <img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/smil3dbd4d4e4c4f2.gif" alt="" />  <img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/smil3dbd4d6422f04.gif" alt="" />  <img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/smil3dbd4dbc14f3f.gif" alt="" /> </div>]]>
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		<title>エリザベス王女が女王になったロッジ　「ツリートップス」</title>
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		<published>2007-05-12T00:00:00+09:00</published>
		<updated>2007-05-12T19:10:18+09:00</updated>
		<category term="ケニア通信" label="ケニア通信" />
		<author>
			<name>satoru</name>
		</author>
		<summary type="html" xml:base="http://www.tsuko40.com/xforum/" xml:lang="ja">ケニアのツリートップスは英国のエリザベス女王が誕生したロッジとして知られている。先日、このツリートップスに泊まる機会を得たので、ツリートップス・ロッジの歴史と現在の様子を女王誕生のエピソードを交えながら紹介したい。ツリートップスは1932年に英国航空隊の軍人であったウォーカー氏とその妻ベティによってケニアのセントラル（中央）州にあるアバデア国立公園内に作られたサファリ・ロッジである。同夫妻はウォーカー氏の退役後にアフリカに渡って、新たにホテル業を始めることを決意し、1928年にケニアの中央州のニエリ市でアウトスパン･ホテルを開業した。アウトスパンは広くて手入れの行き届いた庭園、隣接のゴルフ場を含めた各種スポーツ施設、2つの会議場などを備え、今なお中央州の最高級リゾート・ホテルとして高い評価を保っている（右上の写真は「アウトスパンの庭から見たレストラン」）。ツリートップスは近くのアバデア森林で野生動物を観察・研究したいというアウトスパンの宿泊客等からの声に応えて作られた。最初はイチジクの木の上に板を載せた簡単な動物観察小屋であったが、1932年に宿泊部屋を設けてロッジとなった。アウトスパン・ホテルの入口には「アウトスパン」と「ツリートップス」の2枚の看板が掲げられているが、ツリートップスだけに泊まる客も最初に必ずアウトスパンに立ち寄って、ここで受付を済ます必要がある。受付の後、アウトスパンの専用車に乗って、そこから30分ほどのアバデア国立公園内のツリートップスに行く仕組みとなっている（左の写真は２枚の看板が掲げられている「アウトスパン・ホテルの入口」。右は同ホテル内にある「ツリートップスの受付」）ツリートップスは動物が水を飲みに集まる池のほとりに作られた。また、ツリートップスの池側の地面には塩を撒いて、塩を求める動物が集まるよう工夫も施されている。動物が集まって来るのは通常暗くなり始める夕方頃からであり、宿泊客は柔らかい光でライトアップされた動物をツリートップスの中から観察する。ツリートップスが開業した初期の頃は電気がツリートップスまで来ていなかったので、宿泊客を受け入れるのは月明かりの夜のみに限られていた。ツリートップスが開業して20年後の1952年2月5日、このロッジは大変な賓客を迎えることになった。英国のエリザベス王女が夫のエジンバラ公とともに、このロッジに一泊されることになったのだ。王女はツリートップス行きを大変に楽しみにされていたようで、ゾウ・サイ・ブッシュバックなどやって来た様々な動物を熱心に観察され、興奮した面持ちでお休みになったようである。ところが、その夜、父親である英国国王、ジョージ6世が崩御された。そして、この母国からの訃報を悲しむ間もなく王位はエリザベス王女に継承され、「木の上に上ったプリンセスは、翌日クィーンとなって舞い降りた」とされる。カギカッコ内の表現は王女のお供であった人物のウィットに富んだ秀逸なコメントで、この表現が新聞の見出しにも使われて世界中を駆巡り、エリザベス女王誕生のエピソードを有名なものとした。但し、この時期は未だ通信事情も悪く、正確に言えば、訃報が実際に女王の下に届けられたのは女王がツリートップスを去ってニエリ市のホテルで一休みされている時であった。エリザベス女王は訃報を受けて急遽帰国の途に着かれたが、ニエリ市を去る時にツリートップスを再訪すると約束された。その31年後の1983年、ようやくエリザベス女王の再訪が実現した。アバデア国立公園に入られた女王は、最初の訪問を思い出しつつ感慨にふけるとともに、この時も熱心に動物を観察された由である。（左上の写真は「1952年にエリザベス王女がお泊りになった当時のツリートップス」で、最大収容人員は8名程度であった。右上は「1983年に再訪され、ツリートップスの近辺を散歩されるエリザベス女王」である。この2枚の写真はR.J.Prickett著　“Treetops: Story of a World Famous Hotel”　から拝借した。）1952年にロイヤルカップルが訪れた2年後、ツリートップスはマオマオ団と呼ばれるケニア独立運動グループによって焼き払われた。その3年後には近くの場所にツリートップスが再建されたが、その時からツリートップスは樹上（ツリートップス）のロッジではなく、木柱が建物を支える高床式構造のロッジとなった（左の写真は「再建直後のツリートップス」）。下の写真は現在のツリートップスを、左から順に入口側、池側、裏側（池の反対側）から見たものである。エリザベス女王が誕生したロッジということで人気が高まったためか、昔と比べて随分と拡張され、今や客室数は50もあるが、ツリートップスの宿泊客は昔と同様に入口側の右側に取り付けられている螺旋状の階段を上ってロビーに行く必要がある（階段が見えにくければ、「入口側］からの写真をクリックして下さい）。そのロビーには、樹上時代のイメージを残すためか、床から天井を貫いて大きな木の幹が伸びている（右の写真）。ツリートップスの食堂には10数人は座れる長いテーブルが数個置いてあり、グループ毎に1つのテーブルで夕食を摂るようになっている。テーブルの中央にはスライド式の料理皿置き台が設置されており、料理を配る音で屋外の野生動物を驚かさないような工夫がなされている（左の写真）。宿泊用の部屋は原則として2人部屋でベッドが2つ並んでいるだけの簡素なものである（右の写真）。バス・トイレは部屋にはなく共用となっている。野生動物は部屋からも見えないわけではないが、2階部分に設けられている動物観察用バルコニーからが一番良く見える。この外、地上レベルにコンクリートの壁で囲った部屋があり、この窓からは上からではなく同じ高さで、場合によっては目の前にいる動物を観察でき、写真も撮れる。ツリートップスでは部屋で休んでいても、夜中に珍しい動物が来るとブザーを鳴らして起こしてくれるようになっている。小生が泊まった時は、ブザー音１つがハイエナ、２つがヒョウ、３つがサイ、４つがゾウの合図で、数が多くなると動物が大きくなるようにしているとの説明があった。その夜、小生が実際に観察できた動物は、下の写真の左から「バッファロー」、「ブッシュバック」、「ゾウ」に加えて、いくつかの鳥類だけであった。夕食時にはヒョウが庭を横切っていったようだが、見損なってしまった。また、その夜は翌日にゴルフコンペが控えていたため、動物登場を知らせる合図のブザーのスイッチを切って寝たので、真夜中にどんな動物がやって来たのか分からない。[アバデア国立公園にはジ・アークと言うやはり水場の近くに建てられ、塩を撒いて、建物から動物を観察するサファリ・ロッジがある。アバデア国立公園には沢山の野生動物がいるものの、樹木や竹が茂っているので、サファリ・カーで回っても動物がすぐに林に隠れてしまうため、動物を見るには水場・塩舐め場に来る動物を待ち受けるという方法が一番良いのであろう。小生はかつてジ・アークに泊まった時に宿泊の翌朝、サファリ・カーを雇って公園内をドライブしたことがある。サファリ・カーからは上の写真に登場したバッファロー、ブッシュバック、ゾウの外、ハイエナ、イボイノシシ、ウォーターバック、コロバス・モンキーなど様々な動物が見えたものの、大抵は林の中に隠れてしまい、じっくりと動物を観察して写真を撮ることは難しかった。と言うことで、途中から動物ではなく、アバデア国立公園内の滝を見学することにした。小生の記憶に間違いがなければ、その一つは再訪したエリザベス女王もご覧になった滝で、「エリザベス?世の滝」（エリザベス?世とは現在のエリザベス女王のこと）と名付けられた小振りながら姿の良い滝であった。最後にその滝の写真をご覧頂いた上で（右の写真）、本稿を終えることとしたい。      </summary>
       <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.tsuko40.com/xforum/">
<![CDATA[<div><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/590.jpg"><span class="blogright"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/590.jpg" alt="" /></span></a>ケニアのツリートップスは英国のエリザベス女王が誕生したロッジとして知られている。先日、このツリートップスに泊まる機会を得たので、ツリートップス・ロッジの歴史と現在の様子を女王誕生のエピソードを交えながら紹介したい。<br /><br /><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/575.jpg"><span class="blogleft"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/575.jpg" alt="" /></span></a>ツリートップスは1932年に英国航空隊の軍人であったウォーカー氏とその妻ベティによってケニアのセントラル（中央）州にあるアバデア国立公園内に作られたサファリ・ロッジである。同夫妻はウォーカー氏の退役後にアフリカに渡って、新たにホテル業を始めることを決意し、1928年にケニアの中央州のニエリ市でアウトスパン･ホテルを開業した。<a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/576.jpg"><span class="blogright"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/576.jpg" alt="" /></span></a>アウトスパンは広くて手入れの行き届いた庭園、隣接のゴルフ場を含めた各種スポーツ施設、2つの会議場などを備え、今なお中央州の最高級リゾート・ホテルとして高い評価を保っている（右上の写真は「アウトスパンの庭から見たレストラン」）。<br />ツリートップスは近くのアバデア森林で野生動物を観察・研究したいというアウトスパンの宿泊客等からの声に応えて作られた。最初はイチジクの木の上に板を載せた簡単な動物観察小屋であったが、1932年に宿泊部屋を設けてロッジとなった。<br />アウトスパン・ホテルの入口には「アウトスパン」と「ツリートップス」の2枚の看板が掲げられているが、ツリートップスだけに泊まる客も最初に必ずアウトスパンに立ち寄って、ここで受付を済ます必要がある。受付の後、アウトスパンの専用車に乗って、そこから30分ほどのアバデア国立公園内のツリートップスに行く仕組みとなっている（左の写真は２枚の看板が掲げられている「アウトスパン・ホテルの入口」。右は同ホテル内にある「ツリートップスの受付」）<br /><br /><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/577.jpg"><span class="blogleft"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/577.jpg" alt="" /></span></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/579.jpg"><span class="blogright"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/579.jpg" alt="" /></span></a>ツリートップスは動物が水を飲みに集まる池のほとりに作られた。また、ツリートップスの池側の地面には塩を撒いて、塩を求める動物が集まるよう工夫も施されている。動物が集まって来るのは通常暗くなり始める夕方頃からであり、宿泊客は柔らかい光でライトアップされた動物をツリートップスの中から観察する。ツリートップスが開業した初期の頃は電気がツリートップスまで来ていなかったので、宿泊客を受け入れるのは月明かりの夜のみに限られていた。<br />ツリートップスが開業して20年後の1952年2月5日、このロッジは大変な賓客を迎えることになった。英国のエリザベス王女が夫のエジンバラ公とともに、このロッジに一泊されることになったのだ。王女はツリートップス行きを大変に楽しみにされていたようで、ゾウ・サイ・ブッシュバックなどやって来た様々な動物を熱心に観察され、興奮した面持ちでお休みになったようである。ところが、その夜、父親である英国国王、ジョージ6世が崩御された。そして、この母国からの訃報を悲しむ間もなく王位はエリザベス王女に継承され、「木の上に上ったプリンセスは、翌日クィーンとなって舞い降りた」とされる。カギカッコ内の表現は王女のお供であった人物のウィットに富んだ秀逸なコメントで、この表現が新聞の見出しにも使われて世界中を駆巡り、エリザベス女王誕生のエピソードを有名なものとした。但し、この時期は未だ通信事情も悪く、正確に言えば、訃報が実際に女王の下に届けられたのは女王がツリートップスを去ってニエリ市のホテルで一休みされている時であった。<br />エリザベス女王は訃報を受けて急遽帰国の途に着かれたが、ニエリ市を去る時にツリートップスを再訪すると約束された。その31年後の1983年、ようやくエリザベス女王の再訪が実現した。アバデア国立公園に入られた女王は、最初の訪問を思い出しつつ感慨にふけるとともに、この時も熱心に動物を観察された由である。（左上の写真は「1952年にエリザベス王女がお泊りになった当時のツリートップス」で、最大収容人員は8名程度であった。右上は「1983年に再訪され、ツリートップスの近辺を散歩されるエリザベス女王」である。この2枚の写真はR.J.Prickett著　“Treetops: Story of a World Famous Hotel”　から拝借した。）<br /><br /><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/578.jpg"><span class="blogleft"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/578.jpg" alt="" /></span></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/585.jpg"><span class="blogright"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/585.jpg" alt="" /></span></a>1952年にロイヤルカップルが訪れた2年後、ツリートップスはマオマオ団と呼ばれるケニア独立運動グループによって焼き払われた。その3年後には近くの場所にツリートップスが再建されたが、その時からツリートップスは樹上（ツリートップス）のロッジではなく、木柱が建物を支える高床式構造のロッジとなった（左の写真は「再建直後のツリートップス」）。<br />下の写真は現在のツリートップスを、左から順に入口側、池側、裏側（池の反対側）から見たものである。エリザベス女王が誕生したロッジということで人気が高まったためか、昔と比べて随分と拡張され、今や客室数は50もあるが、ツリートップスの宿泊客は昔と同様に入口側の右側に取り付けられている螺旋状の階段を上ってロビーに行く必要がある（階段が見えにくければ、「入口側］からの写真をクリックして下さい）。そのロビーには、樹上時代のイメージを残すためか、床から天井を貫いて大きな木の幹が伸びている（右の写真）。<br /><br /><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/580.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/580.jpg" alt="" /></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/581.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/581.jpg" alt="" /></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/582.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/582.jpg" alt="" /></a><br /><br /><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/583.jpg"><span class="blogleft"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/583.jpg" alt="" /></span></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/584.jpg"><span class="blogright"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/584.jpg" alt="" /></span></a>ツリートップスの食堂には10数人は座れる長いテーブルが数個置いてあり、グループ毎に1つのテーブルで夕食を摂るようになっている。テーブルの中央にはスライド式の料理皿置き台が設置されており、料理を配る音で屋外の野生動物を驚かさないような工夫がなされている（左の写真）。宿泊用の部屋は原則として2人部屋でベッドが2つ並んでいるだけの簡素なものである（右の写真）。バス・トイレは部屋にはなく共用となっている。野生動物は部屋からも見えないわけではないが、2階部分に設けられている動物観察用バルコニーからが一番良く見える。この外、地上レベルにコンクリートの壁で囲った部屋があり、この窓からは上からではなく同じ高さで、場合によっては目の前にいる動物を観察でき、写真も撮れる。ツリートップスでは部屋で休んでいても、夜中に珍しい動物が来るとブザーを鳴らして起こしてくれるようになっている。小生が泊まった時は、ブザー音１つがハイエナ、２つがヒョウ、３つがサイ、４つがゾウの合図で、数が多くなると動物が大きくなるようにしているとの説明があった。<br />その夜、小生が実際に観察できた動物は、下の写真の左から「バッファロー」、「ブッシュバック」、「ゾウ」に加えて、いくつかの鳥類だけであった。夕食時にはヒョウが庭を横切っていったようだが、見損なってしまった。また、その夜は翌日にゴルフコンペが控えていたため、動物登場を知らせる合図のブザーのスイッチを切って寝たので、真夜中にどんな動物がやって来たのか分からない。<br /><br /><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/587.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/587.jpg" alt="" /></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/588.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/588.jpg" alt="" /></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/586.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/586.jpg" alt="" /></a>[<br /><br /><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/589.jpg"><span class="blogright"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/589.jpg" alt="" /></span></a>アバデア国立公園にはジ・アークと言うやはり水場の近くに建てられ、塩を撒いて、建物から動物を観察するサファリ・ロッジがある。アバデア国立公園には沢山の野生動物がいるものの、樹木や竹が茂っているので、サファリ・カーで回っても動物がすぐに林に隠れてしまうため、動物を見るには水場・塩舐め場に来る動物を待ち受けるという方法が一番良いのであろう。<br />小生はかつてジ・アークに泊まった時に宿泊の翌朝、サファリ・カーを雇って公園内をドライブしたことがある。サファリ・カーからは上の写真に登場したバッファロー、ブッシュバック、ゾウの外、ハイエナ、イボイノシシ、ウォーターバック、コロバス・モンキーなど様々な動物が見えたものの、大抵は林の中に隠れてしまい、じっくりと動物を観察して写真を撮ることは難しかった。と言うことで、途中から動物ではなく、アバデア国立公園内の滝を見学することにした。小生の記憶に間違いがなければ、その一つは再訪したエリザベス女王もご覧になった滝で、「エリザベス?世の滝」（エリザベス?世とは現在のエリザベス女王のこと）と名付けられた小振りながら姿の良い滝であった。最後にその滝の写真をご覧頂いた上で（右の写真）、本稿を終えることとしたい。<br /> <img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/smil3dbd4d4e4c4f2.gif" alt="" />  <img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/smil3dbd4d6422f04.gif" alt="" />  <img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/smil3dbd4dbc14f3f.gif" alt="" /> </div>]]>
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		<title>Made in Kenya Fair: ケニアの一村一品展</title>
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		<published>2007-04-17T00:00:00+09:00</published>
		<updated>2007-04-18T03:07:00+09:00</updated>
		<category term="ケニア通信" label="ケニア通信" />
		<author>
			<name>satoru</name>
		</author>
		<summary type="html" xml:base="http://www.tsuko40.com/xforum/" xml:lang="ja">我が大使館は去る3月26-27日にケニア貿易産業省、JICA、JETROと共催で、“Made in Kenya Fair”と題するケニアの一村一品展を開催した。今回はこのFairの概要とFairに出展されたケニアの特産品のいくつかを紹介したい。ご承知のように、一村一品運動は1979年に当時の平松大分県知事が提唱・開始したもので、将来有望な地方の特産品を発掘し、その特産品が全国的に販売され、世界にも輸出されるように支援する戦略的な運動である。輸出振興は開発途上国の経済発展にとっても重要であり、日本は2005年のWTO香港閣僚会議で「貿易振興のための援助イニシアティブ」を発表した。そして、そのイニシアティブ実施の一環として、日本は開発途上国に一村一品運動の導入を勧め、支援している。今回のFairはこうした方針に沿ってこれまでケニア政府と日本側が共同で発掘努力を行ってきたケニアの約70の特産品を展示・販売するとともに、一村一品運動に関する知識･経験を交換する場を提供するために開催したものである（右の写真は今回のFairのロゴで、ロゴの真ん中にある「1」を掴んだ手は一村一品のシンボルマークである）。Fairの開催場所はナイロビ市内の中心街にあるケニアッタ国際会議場(KICC)である（左の写真）。Fairは写真の右にあるキノコ型の屋根をした建物を会場とする開会式から始まった。開会式の司会はナロ貿易産業省次官が務め、彼の指名により、まず、小生が挨拶した。小生はケニアで一村一品運動を開始することになった経緯や日本が地方の特産品の生産、流通、販売･輸出の各段階において、必要に応じて、知識や技術の提供、研修の実施、資金的支援などの様々な手段で支援する用意があることを説明した。その上で、Fairのロゴに描かれている一村一品のシンボルマークである螺旋状の手が示しているように、ケニアの地方の村で生産された特産品が様々な人々の支援と努力によって段々とパワー・アップして、最後は市場におけるナンバー・ワンの製品になるように頑張ってほしいと激励した。次にキツイ貿易産業大臣が挨拶し、ケニアの地方開発にとって有益なイニシアティブとなりうる一村一品運動に対する日本の支援に感謝を表明するとともに、一村一品運動が成功するか否かは地方の人々自身のやる気や創意工夫にかかっていることを強調した。そして、Made in Kenya Fairの正式な開幕を宣言して挨拶を締め括った（右上の写真は開会式の壇上に並んだキツイ大臣と小生）。開会式の後、KICCの前庭広場に移動し、キツイ大臣と小生が展示ブースを収容したテントの入口で一村一品展のテープカットを行った。これを合図に観客のテント内への入場が許され、小生もキツイ大臣と一緒にテント内の展示のブースを見て回った（左の写真は「KICCの広場に設置された特産品のブースを収容する大テント」、右は「テープカットの模様」）。出展されていた特産品はバラエティに富んでおり、化粧品、薬品、食料品、食器、陶磁器、絵画、彫刻、家具、装飾品、ハンドバッグ、衣服、工具・器具・機械類など様々な郷土自慢の品が並んでいた。その内、ケニアのお土産となりそうな特産品を紹介すれば次のとおりである。まず、下の写真上段は左から「マサイのビーズ」、「ケニアの絵皿」、「ケニアの絵画」である。「マサイのビーズ」は日本人女性がネックレスとして使うには相当の勇気が要るものの、ブレスレットやコースターに使えばおしゃれであろう。「ケニアの絵皿」はソープ・ストーンと呼ばれるケニア西部のキシイ地方で産出する光沢のある石から作った皿に絵着けしたものであり、誠にカラフルで美しい。ちなみに、ソープ・ストーンは動物やアフリカ人の彫刻の素材としても使われている。「ケニアの絵画」はバナナの皮などの自然の素材で作った画布に描いたもので、軽いので沢山の数のお土産が必要な旅行者にはお勧めの品である。ところで、ブースの前に立つ案内嬢もスタイルが良くて素敵とは思いませんか。次に下の写真下段は左から「ココナツ･オイル」、「ココナツを材料としたランプのカサ」、「サイザル･バッグとテーブル・クロス」である。最初の２つはインド洋に面しているコースト地方の特産品である。「ココナツ・オイル（ヤシ油）」は分子構造が細かいラウリン酸を多く含み、肌に浸透しやすくベタつかない。その一方で保湿効果が強く、しっとり感を持続させるので、乾燥時の美肌作りに最適とのことであった。「ランプのカサ」はココナツ（ヤシ）の葉や実の外皮の繊維で作ったもので、素朴な味わいがある。「サイザル・ザッグ」はかつてケニア通信でも紹介したサイザル麻を使った丈夫なバッグであるが、近年、デザインや色合いがさらに洗練されつつある。Fair第１日目の午後には、ケニア･日本の共催４団体、出展している民間企業・コミュニティ・NGO等が参加して、今後におけるケニアの一村一品運動の展開等について議論するワークショップが開催された。同日夕刻にはケニア政府主催によるレセプションが開催され、そこで特に将来有望な特産品のブースが表彰された。その審査は一村一品運動の理解度・革新性・環境への配慮等を基準に、今後、生産規模を拡大して世界市場への輸出に乗り出せる可能性がある特産品が選ばれた。この結果、表彰されたブースは、下の写真で左から「第１位：健康食品ブース」、「第２位：自然薬品・殺虫薬・蜂蜜・生糸製品ブース」、「第３位：金型・機械部品ブース」である（左の写真はナロ次官による第１位ブースの表彰）。第１位のブースは有機・無農薬でまじりけのない純粋な食品を、第２位のブースは自然の動植物が作り出す特産品を売り物にしていた。こうした特産品が選ばれたのは、世界的に「健康」、「自然」、「環境へのやさしさ」への関心が高まっている表れと思われる。第３位のブースにはモノ作りに不可欠な金型や機械部品が展示してあり、選考の背景にはケニア政府の製造業振興への熱意が窺われる。KICC広場の一村一品展は２日間で合計約2000人の訪問者があり、その場で特産品を購入する人も多く、盛況の内に終了した。我々は今回のFairをこれだけで終わらせず、今後のフォローアップによりケニア各地の特産品が実際に世界市場に輸出されるように支援していきたいと考えている。最後に、今回のFairの実現のために最も汗を流して貢献してくれた日本側の若い３人、右上の写真で日本のブース内に並んだ左からJICAの石塚君、川合さん、大使館の坂野君を紹介して、本稿を終えることとしたい（今回の写真は小さい被写体が多いので、適宜、クリックして見ていただければ幸いである）。       </summary>
       <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.tsuko40.com/xforum/">
<![CDATA[<div><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/559.jpg"><span class="blogright"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/559.jpg" alt="" /></span></a>我が大使館は去る3月26-27日にケニア貿易産業省、JICA、JETROと共催で、“Made in Kenya Fair”と題するケニアの一村一品展を開催した。今回はこのFairの概要とFairに出展されたケニアの特産品のいくつかを紹介したい。<br /><br />ご承知のように、一村一品運動は1979年に当時の平松大分県知事が提唱・開始したもので、将来有望な地方の特産品を発掘し、その特産品が全国的に販売され、世界にも輸出されるように支援する戦略的な運動である。輸出振興は開発途上国の経済発展にとっても重要であり、日本は2005年のWTO香港閣僚会議で「貿易振興のための援助イニシアティブ」を発表した。そして、そのイニシアティブ実施の一環として、日本は開発途上国に一村一品運動の導入を勧め、支援している。今回のFairはこうした方針に沿ってこれまでケニア政府と日本側が共同で発掘努力を行ってきたケニアの約70の特産品を展示・販売するとともに、一村一品運動に関する知識･経験を交換する場を提供するために開催したものである（右の写真は今回のFairのロゴで、ロゴの真ん中にある「1」を掴んだ手は一村一品のシンボルマークである）。<br /><br /><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/560.jpg"><span class="blogleft"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/560.jpg" alt="" /></span></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/561.jpg"><span class="blogright"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/561.jpg" alt="" /></span></a>Fairの開催場所はナイロビ市内の中心街にあるケニアッタ国際会議場(KICC)である（左の写真）。Fairは写真の右にあるキノコ型の屋根をした建物を会場とする開会式から始まった。開会式の司会はナロ貿易産業省次官が務め、彼の指名により、まず、小生が挨拶した。小生はケニアで一村一品運動を開始することになった経緯や日本が地方の特産品の生産、流通、販売･輸出の各段階において、必要に応じて、知識や技術の提供、研修の実施、資金的支援などの様々な手段で支援する用意があることを説明した。その上で、Fairのロゴに描かれている一村一品のシンボルマークである螺旋状の手が示しているように、ケニアの地方の村で生産された特産品が様々な人々の支援と努力によって段々とパワー・アップして、最後は市場におけるナンバー・ワンの製品になるように頑張ってほしいと激励した。<br />次にキツイ貿易産業大臣が挨拶し、ケニアの地方開発にとって有益なイニシアティブとなりうる一村一品運動に対する日本の支援に感謝を表明するとともに、一村一品運動が成功するか否かは地方の人々自身のやる気や創意工夫にかかっていることを強調した。そして、Made in Kenya Fairの正式な開幕を宣言して挨拶を締め括った（右上の写真は開会式の壇上に並んだキツイ大臣と小生）。<br /><br /><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/562.jpg"><span class="blogleft"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/562.jpg" alt="" /></span></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/563.jpg"><span class="blogright"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/563.jpg" alt="" /></span></a>開会式の後、KICCの前庭広場に移動し、キツイ大臣と小生が展示ブースを収容したテントの入口で一村一品展のテープカットを行った。これを合図に観客のテント内への入場が許され、小生もキツイ大臣と一緒にテント内の展示のブースを見て回った（左の写真は「KICCの広場に設置された特産品のブースを収容する大テント」、右は「テープカットの模様」）。<br />出展されていた特産品はバラエティに富んでおり、化粧品、薬品、食料品、食器、陶磁器、絵画、彫刻、家具、装飾品、ハンドバッグ、衣服、工具・器具・機械類など様々な郷土自慢の品が並んでいた。その内、ケニアのお土産となりそうな特産品を紹介すれば次のとおりである。<br />まず、下の写真上段は左から「マサイのビーズ」、「ケニアの絵皿」、「ケニアの絵画」である。「マサイのビーズ」は日本人女性がネックレスとして使うには相当の勇気が要るものの、ブレスレットやコースターに使えばおしゃれであろう。「ケニアの絵皿」はソープ・ストーンと呼ばれるケニア西部のキシイ地方で産出する光沢のある石から作った皿に絵着けしたものであり、誠にカラフルで美しい。ちなみに、ソープ・ストーンは動物やアフリカ人の彫刻の素材としても使われている。「ケニアの絵画」はバナナの皮などの自然の素材で作った画布に描いたもので、軽いので沢山の数のお土産が必要な旅行者にはお勧めの品である。ところで、ブースの前に立つ案内嬢もスタイルが良くて素敵とは思いませんか。<br />次に下の写真下段は左から「ココナツ･オイル」、「ココナツを材料としたランプのカサ」、「サイザル･バッグとテーブル・クロス」である。最初の２つはインド洋に面しているコースト地方の特産品である。「ココナツ・オイル（ヤシ油）」は分子構造が細かいラウリン酸を多く含み、肌に浸透しやすくベタつかない。その一方で保湿効果が強く、しっとり感を持続させるので、乾燥時の美肌作りに最適とのことであった。「ランプのカサ」はココナツ（ヤシ）の葉や実の外皮の繊維で作ったもので、素朴な味わいがある。「サイザル・ザッグ」はかつてケニア通信でも紹介したサイザル麻を使った丈夫なバッグであるが、近年、デザインや色合いがさらに洗練されつつある。<br /><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/564.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/564.jpg" alt="" /></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/565.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/565.jpg" alt="" /></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/566.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/566.jpg" alt="" /></a><br /><br /><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/567.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/567.jpg" alt="" /></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/568.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/568.jpg" alt="" /></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/569.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/569.jpg" alt="" /></a><br /><br /><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/570.jpg"><span class="blogleft"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/570.jpg" alt="" /></span></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/574.jpg"><span class="blogright"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/574.jpg" alt="" /></span></a>Fair第１日目の午後には、ケニア･日本の共催４団体、出展している民間企業・コミュニティ・NGO等が参加して、今後におけるケニアの一村一品運動の展開等について議論するワークショップが開催された。<br />同日夕刻にはケニア政府主催によるレセプションが開催され、そこで特に将来有望な特産品のブースが表彰された。その審査は一村一品運動の理解度・革新性・環境への配慮等を基準に、今後、生産規模を拡大して世界市場への輸出に乗り出せる可能性がある特産品が選ばれた。この結果、表彰されたブースは、下の写真で左から「第１位：健康食品ブース」、「第２位：自然薬品・殺虫薬・蜂蜜・生糸製品ブース」、「第３位：金型・機械部品ブース」である（左の写真はナロ次官による第１位ブースの表彰）。<br />第１位のブースは有機・無農薬でまじりけのない純粋な食品を、第２位のブースは自然の動植物が作り出す特産品を売り物にしていた。こうした特産品が選ばれたのは、世界的に「健康」、「自然」、「環境へのやさしさ」への関心が高まっている表れと思われる。第３位のブースにはモノ作りに不可欠な金型や機械部品が展示してあり、選考の背景にはケニア政府の製造業振興への熱意が窺われる。<br />KICC広場の一村一品展は２日間で合計約2000人の訪問者があり、その場で特産品を購入する人も多く、盛況の内に終了した。我々は今回のFairをこれだけで終わらせず、今後のフォローアップによりケニア各地の特産品が実際に世界市場に輸出されるように支援していきたいと考えている。<br />最後に、今回のFairの実現のために最も汗を流して貢献してくれた日本側の若い３人、右上の写真で日本のブース内に並んだ左からJICAの石塚君、川合さん、大使館の坂野君を紹介して、本稿を終えることとしたい（今回の写真は小さい被写体が多いので、適宜、クリックして見ていただければ幸いである）。<br /><br /><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/571.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/571.jpg" alt="" /></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/572.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/572.jpg" alt="" /></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/573.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/573.jpg" alt="" /></a><br /> <img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/smil3dbd4d75edb5e.gif" alt="" />  <img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/smil3dbd4d6422f04.gif" alt="" />   <img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/smil3dbd4dbc14f3f.gif" alt="" /> </div>]]>
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		<title>マグレブの旅その２：悲劇の都市カルタゴの故地「チュニジア」</title>
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		<published>2007-04-02T00:00:00+09:00</published>
		<updated>2007-04-09T17:13:43+09:00</updated>
		<category term="ケニア通信" label="ケニア通信" />
		<author>
			<name>satoru</name>
		</author>
		<summary type="html" xml:base="http://www.tsuko40.com/xforum/" xml:lang="ja">今回はマグレブの旅その２として、チュニジアを紹介したい。チュニジアは小国ながらもモロッコと同様に多様性に富む地形、気候、文化を有する国である。その内、小生が実際に現地を訪れたのは首都チュニス近辺を中心としたチュニジア北部のみである。ということで、今回もチュニジア全体の旅行記でないことをご容赦いただきたい。チュニジアは地中海に面し、北アフリカのほぼ中央に位置する国である。アルジェリアおよびリビアと国境を接し、地中海を挟んでイタリアと面している。イタリア領であるシチリア島やササルディニア島まで150km程度の近さである（左の地図参照）。国土面積は日本の半分弱で南北に細長く、北部の肥沃な緑野、中部の山地と高原地帯、南部の砂漠地帯に分かれている。人口は1000万人強で人種構成はアラブ人が98%を占めるが、この数字にはアラブ化が進んだ先住民族のベルベル人も含まれている。言語は公用語がアラビア語だが、仏語も良く通用する。一人当たり所得は2890ドル(2005年)で、ケニアより5.5倍ほど豊かである（右はチュニジアの国旗）。チュニジアの歴史を略述すれば、先住民はベルベル人であったが、紀元前12世紀にフェニキア人が渡来し、カルタゴを築いた。後で詳述するようにカルタゴは紀元前146年にローマ帝国に敗れて同帝国の属領となった。７世紀からイスラムの西進によりアラブ人の支配下に入り、1574年にオスマン・トルコ帝国の属領となった。1881年にフランスの保護領となったが、1956年に独立、翌年から共和制に移行して現在に至っている。小生がチュニジアを訪問した最大の目的は悲劇の都市といえる古代カルタゴを現地で偲ぶことにあり、まずはカルタゴの案内から始め、その後に他の訪問先に回ることとしたい。【カルタゴの歴史と現在】カルタゴは首都チュニスから東北東方向約15kmにある地中海に面した海岸都市である。伝説によれば、カルタゴは紀元前814年にフェニキアの都市国家であったティルス（現在のレバノンに所在）の王女エリッサが兄の脅威から逃れるためにやって来て、築いた町とされる。町はフェニキア語で「カルト・ハダシュト（新しい町）」と名付けられ、後にそれがローマ訛りでカルタゴとなった。カルタゴは紀元前8-2世紀にかけて海上貿易や農業により大きな発展を遂げ、シチリア、サルディニア、モロッコ、スペインなどに次々と殖民市を築いていった。しかし、紀元前264年に至り、イタリア半島を制して地中海にも勢力を拡大しようとしていたローマ帝国とシチリア島の権益を巡って衝突し、戦争が始まった。この戦争はポエニ戦争と呼ばれ、第１次（紀元前264-241年）、第２次（同218-202年）、第３次（同149-146年）の３つの大きな戦争が１世紀以上に亘って繰り広げられた。カルタゴは３回のポエニ戦争ともにローマに敗れた。そして、第３次ポエニ戦争の敗戦時には右の写真の「古代カルタゴの模型図」で見るような立派な都市が完全に破壊され、生き残ったカルタゴ市民５万人は全員捕虜とされて、フェニキア人が作った古代カルタゴは滅亡した。第２次ポエニ戦争でカルタゴ軍を率いたのが、チュニジアの英雄ハンニバルである（左の肖像画：ウィキペディアから拝借）。ハンニバルはスペインに駐在していたが、紀元前218年に５万人の兵と37頭のゾウを連れて、フランスを経てイタリアに入り、アルプスを越えてローマに向けて進軍した。ハンニバルは戦争初期にはローマ軍に連戦連勝し、特にカンネーの戦いでは包囲殲滅戦法を駆使してローマ軍に壊滅的な打撃を与えた。しかし、次第に戦況は膠着から悪化に向かい、逆にローマの大スキピオ（右の肖像画：同上）によってカルタゴ本土に上陸を敢行されてしまった。ハンニバルは急遽呼び戻されてカルタゴに帰ったものの、大スキピオにザマの戦いで敗北し、第２次ポエニ戦争は終結した。その後、カルタゴは急速に国力を回復したが、その驚異的な回復力に対する警戒と第２次ポエニ戦争で痛い目を味わった苦々しい記憶から、ローマではカルタゴを地上から永久に抹殺すべきであるという声が高まった。その代表格は政治家大カトーで、彼は元老院で演説を行う時は常に「ともあれ、私はカルタゴは滅ぼされるべきであると思う」と末尾に付け加えたとされる。こうした強硬派の意を受けて、ローマは難題を吹っ掛けてカルタゴを第３次ポエニ戦争に追い込んだ。そして、紀元前146年、カルタゴは３年間の籠城戦の後、ローマ軍の猛攻に屈して陥落した。時のローマ軍の司令官であった小スキピオは生き残った市民全員を奴隷にするとともに、わずかに残った建物も取り壊して土地をならした上で、永遠に人も住めず雑草すら生えないように塩をまかせたと伝えられる。カルタゴの故地であるビュルサの丘は世界遺産に指定されているものの、上記のように完全に破壊されたため、古代カルタゴの遺跡はほとんど残っていない。わずかに古代カルタゴの遺跡とされるのは、丘の奥の方にある小さな住居の石作りの土台くらいである（左の写真）。下にビュルサの丘から見た「現在のカルタゴの全景」の写真を掲げておいたが、遺跡として残っているのは後世のローマ時代に建てられた建築物の土台であり、この地を中心にして、上に掲げた「古代カルタゴの模型図」のような都市が存在したとを想像することは難しい。チュニジア人のガイドはビュルサの丘で「ハンニバルはローマの中心部に攻め込んでローマを壊滅することができたのに、心優しい人物であったためにそうできなかった。ハンニバルがローマを攻めていれば世界の歴史は変わっていたのに。」と悔しがっていた。いずれにせよ、カルタゴの悲劇は余りにも繁栄し過ぎたため、ローマに抹殺を決意させるほど大きな嫉妬心と警戒心を抱かせたことにあった言える。丘に立って古代カルタゴの市民が辿った過酷な運命を思うと勝者と敗者との厳しい差異に慄然とする一方で、敗者となった市民にものの哀れを感じた次第である。丘を下ると海岸近くに古代カルタゴの面影を残す遺跡としてトフェ（タニト神の聖域）と呼ばれる場所がある。ここは古代カルタゴの守護神であったタニト女神等を祭る聖域であった。ローマの文献によると、古代カルタゴでは幼児を殺して神に捧げる「いけにえ」の習慣があったとされ、トフェの敷地内には「いけにえ」とされた幼児の小さな墓が一杯並んでいた。但し、チュニジア人のガイドのよると、これらは病気で死んだ幼児の墓である可能性が強く、いけにえ説はローマ人がフェニキア人を中傷するための作り話に過ぎないとのことであった。カルタゴの海岸には広大な共同浴場跡が残っている。これは古代カルタゴの滅亡後、100年近く経ってからローマがカルタゴを殖民市として再建することを決定したことを受けて、アントニヌス皇帝が２世紀に建設した浴場であり、古代カルタゴとは無縁な遺跡である。（下の写真は左から「現在のカルタゴの全景」、「トフェの墓石」、「アントニヌスの共同浴場」）【ドゥッガとブラ・レジア】この２つはいずれもチュニジアの北部にあるローマ遺跡の町で、チュニスから車で西方向に走れば２時間以内で辿り着く。ドゥッガは規模も大きく保存状態も良いため、世界遺産に指定されている。ドゥッガのシンボルとも言えるのが、ジュピター、ジュノー、ミネルヴァの３神を祭った神殿のキャピトルである（右の写真）。キャピトルはローマが異民族を統治する際の装置の役割も果したとされる。ドゥッガの劇場は3500人収容できる大規模な建造物である。保存状態が良く、今でも5-6月頃に時おりフランスの古典劇が上演される。ブラ・レジアにはローマ遺跡としては珍しい地下住居がある。この地方は夏の暑さが厳しいため、ブラ・レジアの人々は夏は涼しい地下で、それ以外の季節は地上で暮らすという工夫をしていた。ブラ・レジアの北側の住居跡には美しいアフロディーテのモザイクが床に残っている。（下の写真は左から、「ドゥッガの劇場」、「ブラ・レジアの地下住居」、「同アフロディーテのモザイク」）【シディ・ブ・サイド】この町はチュニスから北東に15km強、地中海に面した丘の上にあり、町の歴史はアラブ支配初期の要塞建設から始まった。石畳の坂道の両側に白壁とチュニジアン・ブルーの扉や窓枠の家が立ち並び、チュニジアで最も美しい町と言われている。シディ・ブ・サイドには「カフェ・デ・ナット」という世界で最も古いとされるカフェがあり、いつも観光客で賑わっている。有名作家や芸術家たちも好んでこのカフェを訪れたようである。カフェ・デ・ナットの先にある急な階段で丘を下ると、地中海に面するヨットハーバーに辿り着いた。メディタレーニアン・ブルー（地中海の青）とでも言うのだろうか、明るい太陽の下で映えるシディ・ブ・サイド海岸の空と海の青も誠に美しかった。（下の写真は左から、「シディ・ブ・サイドの建物の扉」、「カフェ・デ・ナットの階段と入口」、「シディ・ブ・サイドのヨットハーバー」）【バルドー博物館とチュニス市内】チュニスの西端にあるバルドー博物館は北アフリカを代表する考古学博物館で、「チュニジアのルーブル」と呼ばれている。古代カルタゴの出土品と並んで、特に有名なのは世界一のコレクションと評判のモザイクである。ここでは、特に完成度が高いとされる「ユリシーズとセイレーン」（左の写真：ギリシャ神話に出てくる「セイレーンの歌声の魔力によって海に飛び込こまないように帆柱に体をくくりつけたユリシーズ（オデュセウス）と耳に蝋栓をして船を漕ぐ船員」を描いたもの）と海の神「ポセイドン（ネプチューン）」（右の写真）を掲げておくこととしたい。クリックすれば、モザイクの素晴らしさが更に良くお分かり頂けると思う。チュニスの街並みは旧市街（メディナ）を除けばパリの街並みと良く似ており、フランスの強い影響が伺われた。小生夫婦は道端に席を設けたカフェでエスプレッソを楽しみ、夜は雰囲気の良いフレンチ・レストランでワインと仏料理を堪能するなど、パリを旅行している気分を味わうことができた。他方、世界遺産となっているメディナはイスラムの世界で、店が立ち並ぶ路地を行き交う多くの人々ととともに散歩や買物、そしてグランド・モスクを初めとする見事なイスラム建築を楽しむことができた。（下の写真は左から、「チュニスのシンボルである大時計台」、「メディナの路地」、「グランド・モスク」）チュニジアには上記以外にも世界遺産に指定されているローマの遺跡やイスラムの都市がある外、南部の砂漠は「スター・ウォーズ」や「レイダーズ：失われたアーク」を含めて多くの映画の舞台となっており、perlaさんからお勧めのあったビーチを初めとする地中海側も魅力的である。小国ながら、もっと時間をかけて回る価値がある国と言えよう。【追記】2005年2月にチャリティ・コンサートの奏者としてケニアを訪れた世界的なピアニスト小川典子さん（右の写真）が、去る3月28−29日に催された「小川典子ピアノ・ソロ・コンサート」に出演するため、再びケニアに来てくれた。このコンサートは２年前に小川さんの素晴らしいピアノ生演に感激したケニアの音楽愛好家の間で小川さんのケニア再訪を望む声が高まっていたのに応えて我が大使館が特別文化行事として企画したものであるが、佐藤ケニアナッツ社長をヘッドとする実行委員会の多大な支援があって初めて実現に漕ぎ着けることができた。ケニアでは小川さんのような世界一流の音楽家の生演奏が聞ける機会が多くないこともあり、コンサートでは聴衆の万雷の拍手が鳴り止まなかった。主催者である我が大使館にも多くの賛辞と謝意が寄せられ、誠に嬉しく、また誇らしく感じた。小川さんは相変わらず素敵で、ケニア在住の人々の中に小川典子ファンが益々増えたことは間違いない。      </summary>
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<![CDATA[<div>今回はマグレブの旅その２として、チュニジアを紹介したい。チュニジアは小国ながらもモロッコと同様に多様性に富む地形、気候、文化を有する国である。その内、小生が実際に現地を訪れたのは首都チュニス近辺を中心としたチュニジア北部のみである。ということで、今回もチュニジア全体の旅行記でないことをご容赦いただきたい。<br /><br /><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/537.gif"><span class="blogleft"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/537.gif" alt="" /></span></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/538.gif"><span class="blogright"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/538.gif" alt="" /></span></a>チュニジアは地中海に面し、北アフリカのほぼ中央に位置する国である。アルジェリアおよびリビアと国境を接し、地中海を挟んでイタリアと面している。イタリア領であるシチリア島やササルディニア島まで150km程度の近さである（左の地図参照）。国土面積は日本の半分弱で南北に細長く、北部の肥沃な緑野、中部の山地と高原地帯、南部の砂漠地帯に分かれている。人口は1000万人強で人種構成はアラブ人が98%を占めるが、この数字にはアラブ化が進んだ先住民族のベルベル人も含まれている。言語は公用語がアラビア語だが、仏語も良く通用する。一人当たり所得は2890ドル(2005年)で、ケニアより5.5倍ほど豊かである（右はチュニジアの国旗）。<br />チュニジアの歴史を略述すれば、先住民はベルベル人であったが、紀元前12世紀にフェニキア人が渡来し、カルタゴを築いた。後で詳述するようにカルタゴは紀元前146年にローマ帝国に敗れて同帝国の属領となった。７世紀からイスラムの西進によりアラブ人の支配下に入り、1574年にオスマン・トルコ帝国の属領となった。1881年にフランスの保護領となったが、1956年に独立、翌年から共和制に移行して現在に至っている。<br /><br />小生がチュニジアを訪問した最大の目的は悲劇の都市といえる古代カルタゴを現地で偲ぶことにあり、まずはカルタゴの案内から始め、その後に他の訪問先に回ることとしたい。<br /><br /><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/539.jpg"><span class="blogright"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/539.jpg" alt="" /></span></a>【カルタゴの歴史と現在】カルタゴは首都チュニスから東北東方向約15kmにある地中海に面した海岸都市である。伝説によれば、カルタゴは紀元前814年にフェニキアの都市国家であったティルス（現在のレバノンに所在）の王女エリッサが兄の脅威から逃れるためにやって来て、築いた町とされる。町はフェニキア語で「カルト・ハダシュト（新しい町）」と名付けられ、後にそれがローマ訛りでカルタゴとなった。<br />カルタゴは紀元前8-2世紀にかけて海上貿易や農業により大きな発展を遂げ、シチリア、サルディニア、モロッコ、スペインなどに次々と殖民市を築いていった。しかし、紀元前264年に至り、イタリア半島を制して地中海にも勢力を拡大しようとしていたローマ帝国とシチリア島の権益を巡って衝突し、戦争が始まった。この戦争はポエニ戦争と呼ばれ、第１次（紀元前264-241年）、第２次（同218-202年）、第３次（同149-146年）の３つの大きな戦争が１世紀以上に亘って繰り広げられた。カルタゴは３回のポエニ戦争ともにローマに敗れた。そして、第３次ポエニ戦争の敗戦時には右の写真の「古代カルタゴの模型図」で見るような立派な都市が完全に破壊され、生き残ったカルタゴ市民５万人は全員捕虜とされて、フェニキア人が作った古代カルタゴは滅亡した。<br /><br /><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/540.jpg"><span class="blogleft"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/540.jpg" alt="" /></span></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/541.jpg"><span class="blogright"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/541.jpg" alt="" /></span></a>第２次ポエニ戦争でカルタゴ軍を率いたのが、チュニジアの英雄ハンニバルである（左の肖像画：ウィキペディアから拝借）。ハンニバルはスペインに駐在していたが、紀元前218年に５万人の兵と37頭のゾウを連れて、フランスを経てイタリアに入り、アルプスを越えてローマに向けて進軍した。ハンニバルは戦争初期にはローマ軍に連戦連勝し、特にカンネーの戦いでは包囲殲滅戦法を駆使してローマ軍に壊滅的な打撃を与えた。しかし、次第に戦況は膠着から悪化に向かい、逆にローマの大スキピオ（右の肖像画：同上）によってカルタゴ本土に上陸を敢行されてしまった。ハンニバルは急遽呼び戻されてカルタゴに帰ったものの、大スキピオにザマの戦いで敗北し、第２次ポエニ戦争は終結した。<br />その後、カルタゴは急速に国力を回復したが、その驚異的な回復力に対する警戒と第２次ポエニ戦争で痛い目を味わった苦々しい記憶から、ローマではカルタゴを地上から永久に抹殺すべきであるという声が高まった。その代表格は政治家大カトーで、彼は元老院で演説を行う時は常に「ともあれ、私はカルタゴは滅ぼされるべきであると思う」と末尾に付け加えたとされる。<br />こうした強硬派の意を受けて、ローマは難題を吹っ掛けてカルタゴを第３次ポエニ戦争に追い込んだ。そして、紀元前146年、カルタゴは３年間の籠城戦の後、ローマ軍の猛攻に屈して陥落した。時のローマ軍の司令官であった小スキピオは生き残った市民全員を奴隷にするとともに、わずかに残った建物も取り壊して土地をならした上で、永遠に人も住めず雑草すら生えないように塩をまかせたと伝えられる。<br /><br /><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/543.jpg"><span class="blogleft"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/543.jpg" alt="" /></span></a>カルタゴの故地であるビュルサの丘は世界遺産に指定されているものの、上記のように完全に破壊されたため、古代カルタゴの遺跡はほとんど残っていない。わずかに古代カルタゴの遺跡とされるのは、丘の奥の方にある小さな住居の石作りの土台くらいである（左の写真）。下にビュルサの丘から見た「現在のカルタゴの全景」の写真を掲げておいたが、遺跡として残っているのは後世のローマ時代に建てられた建築物の土台であり、この地を中心にして、上に掲げた「古代カルタゴの模型図」のような都市が存在したとを想像することは難しい。<br />チュニジア人のガイドはビュルサの丘で「ハンニバルはローマの中心部に攻め込んでローマを壊滅することができたのに、心優しい人物であったためにそうできなかった。ハンニバルがローマを攻めていれば世界の歴史は変わっていたのに。」と悔しがっていた。いずれにせよ、カルタゴの悲劇は余りにも繁栄し過ぎたため、ローマに抹殺を決意させるほど大きな嫉妬心と警戒心を抱かせたことにあった言える。丘に立って古代カルタゴの市民が辿った過酷な運命を思うと勝者と敗者との厳しい差異に慄然とする一方で、敗者となった市民にものの哀れを感じた次第である。<br />丘を下ると海岸近くに古代カルタゴの面影を残す遺跡としてトフェ（タニト神の聖域）と呼ばれる場所がある。ここは古代カルタゴの守護神であったタニト女神等を祭る聖域であった。ローマの文献によると、古代カルタゴでは幼児を殺して神に捧げる「いけにえ」の習慣があったとされ、トフェの敷地内には「いけにえ」とされた幼児の小さな墓が一杯並んでいた。但し、チュニジア人のガイドのよると、これらは病気で死んだ幼児の墓である可能性が強く、いけにえ説はローマ人がフェニキア人を中傷するための作り話に過ぎないとのことであった。<br />カルタゴの海岸には広大な共同浴場跡が残っている。これは古代カルタゴの滅亡後、100年近く経ってからローマがカルタゴを殖民市として再建することを決定したことを受けて、アントニヌス皇帝が２世紀に建設した浴場であり、古代カルタゴとは無縁な遺跡である。<br />（下の写真は左から「現在のカルタゴの全景」、「トフェの墓石」、「アントニヌスの共同浴場」）<br /><br /><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/542.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/542.jpg" alt="" /></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/544.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/544.jpg" alt="" /></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/545.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/545.jpg" alt="" /></a><br /><br /><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/546.jpg"><span class="blogright"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/546.jpg" alt="" /></span></a>【ドゥッガとブラ・レジア】この２つはいずれもチュニジアの北部にあるローマ遺跡の町で、チュニスから車で西方向に走れば２時間以内で辿り着く。ドゥッガは規模も大きく保存状態も良いため、世界遺産に指定されている。ドゥッガのシンボルとも言えるのが、ジュピター、ジュノー、ミネルヴァの３神を祭った神殿のキャピトルである（右の写真）。キャピトルはローマが異民族を統治する際の装置の役割も果したとされる。ドゥッガの劇場は3500人収容できる大規模な建造物である。保存状態が良く、今でも5-6月頃に時おりフランスの古典劇が上演される。<br />ブラ・レジアにはローマ遺跡としては珍しい地下住居がある。この地方は夏の暑さが厳しいため、ブラ・レジアの人々は夏は涼しい地下で、それ以外の季節は地上で暮らすという工夫をしていた。ブラ・レジアの北側の住居跡には美しいアフロディーテのモザイクが床に残っている。<br />（下の写真は左から、「ドゥッガの劇場」、「ブラ・レジアの地下住居」、「同アフロディーテのモザイク」）<br /><br /><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/547.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/547.jpg" alt="" /></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/548.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/548.jpg" alt="" /></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/549.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/549.jpg" alt="" /></a><br /><br />【シディ・ブ・サイド】この町はチュニスから北東に15km強、地中海に面した丘の上にあり、町の歴史はアラブ支配初期の要塞建設から始まった。石畳の坂道の両側に白壁とチュニジアン・ブルーの扉や窓枠の家が立ち並び、チュニジアで最も美しい町と言われている。<br />シディ・ブ・サイドには「カフェ・デ・ナット」という世界で最も古いとされるカフェがあり、いつも観光客で賑わっている。有名作家や芸術家たちも好んでこのカフェを訪れたようである。カフェ・デ・ナットの先にある急な階段で丘を下ると、地中海に面するヨットハーバーに辿り着いた。メディタレーニアン・ブルー（地中海の青）とでも言うのだろうか、明るい太陽の下で映えるシディ・ブ・サイド海岸の空と海の青も誠に美しかった。<br />（下の写真は左から、「シディ・ブ・サイドの建物の扉」、「カフェ・デ・ナットの階段と入口」、「シディ・ブ・サイドのヨットハーバー」）<br /><br /><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/550.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/550.jpg" alt="" /></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/551.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/551.jpg" alt="" /></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/558.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/558.jpg" alt="" /></a><br /><br /><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/552.jpg"><span class="blogleft"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/552.jpg" alt="" /></span></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/553.jpg"><span class="blogright"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/553.jpg" alt="" /></span></a>【バルドー博物館とチュニス市内】チュニスの西端にあるバルドー博物館は北アフリカを代表する考古学博物館で、「チュニジアのルーブル」と呼ばれている。古代カルタゴの出土品と並んで、特に有名なのは世界一のコレクションと評判のモザイクである。ここでは、特に完成度が高いとされる「ユリシーズとセイレーン」（左の写真：ギリシャ神話に出てくる「セイレーンの歌声の魔力によって海に飛び込こまないように帆柱に体をくくりつけたユリシーズ（オデュセウス）と耳に蝋栓をして船を漕ぐ船員」を描いたもの）と海の神「ポセイドン（ネプチューン）」（右の写真）を掲げておくこととしたい。クリックすれば、モザイクの素晴らしさが更に良くお分かり頂けると思う。<br />チュニスの街並みは旧市街（メディナ）を除けばパリの街並みと良く似ており、フランスの強い影響が伺われた。小生夫婦は道端に席を設けたカフェでエスプレッソを楽しみ、夜は雰囲気の良いフレンチ・レストランでワインと仏料理を堪能するなど、パリを旅行している気分を味わうことができた。他方、世界遺産となっているメディナはイスラムの世界で、店が立ち並ぶ路地を行き交う多くの人々ととともに散歩や買物、そしてグランド・モスクを初めとする見事なイスラム建築を楽しむことができた。<br />（下の写真は左から、「チュニスのシンボルである大時計台」、「メディナの路地」、「グランド・モスク」）<br /><br /><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/554.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/554.jpg" alt="" /></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/555.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/555.jpg" alt="" /></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/556.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/556.jpg" alt="" /></a><br /><br />チュニジアには上記以外にも世界遺産に指定されているローマの遺跡やイスラムの都市がある外、南部の砂漠は「スター・ウォーズ」や「レイダーズ：失われたアーク」を含めて多くの映画の舞台となっており、perlaさんからお勧めのあったビーチを初めとする地中海側も魅力的である。小国ながら、もっと時間をかけて回る価値がある国と言えよう。<br /><br /><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/557.jpg"><span class="blogright"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/557.jpg" alt="" /></span></a>【追記】2005年2月にチャリティ・コンサートの奏者としてケニアを訪れた世界的なピアニスト小川典子さん（右の写真）が、去る3月28−29日に催された「小川典子ピアノ・ソロ・コンサート」に出演するため、再びケニアに来てくれた。このコンサートは２年前に小川さんの素晴らしいピアノ生演に感激したケニアの音楽愛好家の間で小川さんのケニア再訪を望む声が高まっていたのに応えて我が大使館が特別文化行事として企画したものであるが、佐藤ケニアナッツ社長をヘッドとする実行委員会の多大な支援があって初めて実現に漕ぎ着けることができた。<br />ケニアでは小川さんのような世界一流の音楽家の生演奏が聞ける機会が多くないこともあり、コンサートでは聴衆の万雷の拍手が鳴り止まなかった。主催者である我が大使館にも多くの賛辞と謝意が寄せられ、誠に嬉しく、また誇らしく感じた。小川さんは相変わらず素敵で、ケニア在住の人々の中に小川典子ファンが益々増えたことは間違いない。<br /><br /> <img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/smil3dbd4d4e4c4f2.gif" alt="" />  <img 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		<title>マグレブの旅その１：多様で豊かな表情を持つ国「モロッコ」</title>
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		<published>2007-03-19T00:00:00+09:00</published>
		<updated>2007-03-19T20:15:02+09:00</updated>
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			<name>satoru</name>
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		<summary type="html" xml:base="http://www.tsuko40.com/xforum/" xml:lang="ja">「マグレブ」とは「西方」または「日の没する大地」の意味で、アフリカ北西部の３カ国、モロッコ、アルジェリア、チュニジアの総称である（注）。マグレブ諸国は同じアフリカ大陸にあるものの、ケニアを初めとするサブサハラ諸国（サハラ砂漠以南の諸国）とは別の世界を作っている。先般、そのマグレブに属するモロッコとチュニジアを訪問してきたので、２回に分けてその様子を紹介したい。（注）マグレブにリビア、更にはモーリタニアを含める場合がある。モロッコはマグレブ諸国の中で最も西に位置しており、北部は地中海の西出口であるジブラルタル海峡を挟んでスペイン爺やperlaさんの住むスペインと隣接し、南部はアルジェリア、西サハラと国境を接している（左の地図参照）。モロッコの国土面積は日本の約1.2倍で、地形は沿岸部の肥沃な平野、中央部の山脈、南部の砂漠など多様性に富む。人口は3300万人強、人種構成はアラブ人が65%、ベルベル人が30%等である。言語は公用語がアラブ語だが、仏語も良く通用する。一人当たり所得は1730ドル（2005年）で、ケニアより３倍強豊かである（右はモロッコの国旗）。モロッコはアラウィー朝のムハンマド６世を国王とする立憲君主国（王国）である。国王はイスラム経の開祖ムハンマドの直系の子孫とされ、国教であるイスラム教の国教の最高指導者でもある。モロッコの歴史を略述すれば、先住民はベルベル人であるが、紀元前12世紀頃からフェニキア人、カルタゴ人、ローマ人等の侵入を受けた。７世紀にはアラブ人が進出し、８世紀には開祖ムハンマドの子孫がイドリス朝を開いた。その後、いくつかのイスラム王朝が興亡や分裂を繰り返しつつも基本的にはサルタン（イスラム王朝の国王）による統治が続いた。19世紀に入ると欧州列強による進出が始まり、1912年には国土の大半をフランスの保護領、一部の地中海側をスペイン領とする分割統治が行われるようになった。1930年代頃から民族運動が起こり、第２次大戦後の1956年に現国王の祖父であるベン・ユーセフ（ムハンマド５世）がフランスから独立を勝ち取り、現在に至っている。モロッコは地形、気候、歴史、風土、文化のいずれの面から見ても、多様で豊かな表情を持つ国であり、観光の人気スポットを回るだけでもフルに１週間から10日間は必要とされている。４泊５日の小生の旅ではモロッコの魅力の一部しか紹介できそうもないが、以下、小生の旅程に沿ってモロッコの旅を始めたい。【第１日目】昼過ぎにカサブランカ空港に到着。空港には小生夫妻のモロッコ滞在中、レンタカーの運転手を務めてくれるアーメッド君が迎えてくれ、彼が運転する車でそのままモロッコ最大の都市カサブランカの観光に出掛けた。カサブランカで一番の見どころは、８年を費やして1993年に完成したモロッコ最大のモスクである「ハッサン２世モスク」である（左の写真）。このモスクは大西洋に面した８万人収容可能という広大な敷地に建てられており、ミナレット（塔）の高さは200mと世界一を誇っている。ちなみにハッサン２世は現在の国王の父で、このモスクの完成を見た後、1999年に逝去した。モスク見学の後、アイン・ディアブと呼ばれるビーチリゾートや市内の見どころをざっと車で回った。小生は映画「カサブランカ」の舞台となったRick’s Caf&amp;eacute; Americaの見学を楽しみにしていたが、残念ながら開店時間外で入れなかった。カサブランカ観光の後、広瀬駐モロッコ大使のお勧めに従い、日本が建設を支援した鉄道の列車（右の写真）に乗ってモロッコの首都ラバトに向かい、その日はラバトに泊まった。【第２日目】ラバとから車で世界遺産の都市メクネスに向かった。メクネスはアラウィー朝のムーレイ・イスマイル王が同時代のフランス国王であったルイ14世に対抗して壮大な首都にすべく造った都市であるが、首都であったのは17-18世紀にかけての約半世紀に過ぎなかった。ここで特に有名なのはマンスール門とムーレイ・イスマイル廟（左の写真はその入口）である。メクネスの後は、やはり世界遺産の都市フェズに行った。フェズはモロッコ最初のイスラム王朝であるイドリス朝の都として、９世紀初頭に建設された都市である。11世紀後半には首都がマラケシュに移ったが、13世紀中頃に再びフェズがマリーン朝の下で首都となった。フェズのメディナ（旧市街）は世界一の迷宮都市といわれており、両側に店が並ぶ狭い道が迷路のように不規則に何本も作られている。道はアーケードや高い建物で覆われているので昼間でも暗く、初めてだと案内人なし歩くのは難しい（右の写真はメディナの狭い路地）。このメディナの迷路を歩いていると、何か別の世界に迷い込んだような不思議な感覚にとらわれた。フェズのメディナを建物の屋上から眺めたのが左の写真である。クリックして頂くと、建物が地面を覆うようにびっしりと立ち並んでいる様子が良く分かる。この写真の中央よりやや右の大きな屋根は有名なカラウィン・モスクの屋根である。ここは世界最古の大学の一つでもあり、長い間、イスラムの思想、文化、文明に関する研究の中心であった。フェズの中にタンネリと呼ばれる「なめし皮染色職人街」がある。その染色の作業場も建物の屋上から見ることができるが、作業場から立ち上ってくる臭いは誠に強烈であった。フェズの郊外にはモザイクと陶器の工房がある。両方とも手作りによる昔ながらのやり方で作られており、特にモザイクは色鮮やかで美しかった。工房見学の後、車でラバトに戻り、その夜もラバトに泊まった。（下の写真は左から「タンネリの染色作業場」、「フェズ訪問の思い出に購入した皮のスツール（買ってから中に詰め物をする）」、「丸テーブル用のモザイク」）【第３日目】午前中は車でラバト市内を観光した。ラバトは古くから商業貿易で栄えていた都市である。フランスの保護国となった1912年にモロッコの首都となり、現在に至っている。左の写真はムワッヒド朝時代の1195年に建設に着手されたミナレットである「ハッサンの塔」である。高さ88mの予定がマンスール王の死亡により工事が中断し未完の塔となったが、それでも44mの高さを誇っている。右の写真はフランスから1956年に独立を勝ち取った国王である「ムハンマド５世の霊廟」である。４つの入口と内部の四隅に真紅の衣装をまとった衛兵が立っていた。前国王ハッサン２世の石棺もこの霊廟に安置されている。この外、ローマ時代の遺跡やウダイヤのカスバ（城塞）と庭園なども見学した。観光の後、広瀬大使とともに旧知のタイ大使夫妻との昼食を楽しんだ。午後は約350km離れた内陸のマラケシュに車で向かった。途中から高速道路でなくなるが、アーメッド君の巧みな運転技術により夕方７時頃にマラケシュに到着し、ホテルにチェックインできた。【第４−５日】第４日目は最も楽しみにしていたマラケシュ観光の日である。マラケシュはモロッコのほぼ中央に位置し、標高は450mである。背後に3-4000m級の山が並ぶオート・アトラス山脈が聳え、それを越えるとサハラ砂漠が広がっている。マラケシュはフェズの次に古い都市で、11世紀後半にムラービト朝の首都となった。その後、13世紀中頃に首都がフェズに戻ったものの、15世紀中頃にサアード朝が再びマラケシュを首都とした。マラケシュは北と南、即ち、太平洋とサハラ砂漠の中間で、主要都市とは道路で繋がれているため、貿易・商工業、そして文化の中心としても栄えた。マラケシュではブーゲンビリア、ミモザ、ジャスミンなどの花々が一年中咲いており、「モロッコの楽園」とも呼ばれている。言うまでもなく、マラケシュも世界遺産に指定されている。左の写真はマラケシュのシンボル、クトゥビアである。クトゥビアは元はモスクであったが、モスク部分は取り壊され、今は高さ67mの美しいミナレットのみが残っている。マラケシュの中心はジャマ・エル・フナ広場である。この広場には夕方になると屋台が出て、ヘビ使い・火喰い・曲芸・楽団など様々な大道芸人が集まり、毎夕、お祭り広場となる。この広場にはモロッコ名物である右の写真の水売りおじさんも大勢、登場する。この広場は旧市街（メディナ）の入口でもある。メディナの道の両側には小さな店が立ち並び、それが品物毎に同じ場所に集まってスーク（市場）を作っている。道はフェズほど狭くはないが、やはり迷路に近い複雑な路地である。マラケシュには素晴らしい建物や庭園が数多くある。スペインのアルハンブラ宮殿を思わせるバイア宮殿、古いが壮大なエル・バディ宮殿、サアード朝の墳墓群、ベン・ユーセフ・モスク、クッバ・バアディン、マラケシュ博物館、工芸博物館、そしてメナラ庭園、アグダル庭園、マジョレル庭園など、数え切れない多いが、頑張ってそのほとんどを見学した。（下の写真は左から「マラケシュから望むオート・アトラス山脈」、「ジャマ・エル・フナ広場の大道楽団」、「バイア宮殿」）第４日の夜はマラケシュ郊外のディナー・ショウ・レストランである「シェ・アリ」に出掛けた。シェ・アリは全体の敷地が11haもある大きなレストランで、駐車場には何台もの観光バスが並んでいた。食事はテントの中で取り、そのテントに次から次に先住民であるベルベル人が訪れ、歌や踊りを披露する仕組みである。食後には外の馬場で馬の曲乗りのショウなどもあり、スケールの大きさに驚かされた。その夜は再び、マラケシュに泊まった。最終日の第５日目は旅行日で、半日かけて車でカサブランカ空港まで戻り、次の目的地であるチュニジアに向けて飛び発った。以上、歴史好きの小生はモロッコの４つの首都を回る旅を組んだが、海洋リゾート、山登りやトレッキング、半砂漠地帯のカスバ（要塞）見学、砂漠ツアーなど、外にも沢山、モロッコの魅力はある。機会があれば、また行ってみたい国である。最後に、モロッコは見どころが多い上に、解説も適宜必要と思われたので、今回は随分と長いケニア通信になってしまったことをお断りするとともに、最後まで読んで下さった読者に感謝を表したい。（下の写真は左から「シェ・アリで踊るベルベル人女性」、「シェ・アリでの馬の曲乗り」、「日本の観光客に人気のモロッコの砂漠（購入した絵葉書のスキャン）」）（追記）昨年４月にケニア通信で紹介したSCCの菊本照子さん（右の写真）が、この度、「吉川英治文化賞」を受賞されることとなった。この賞は「日本文化の向上に尽くし、讃えられるべき業績をあげながらも、報われることの少ない人」に贈呈される賞である。最初に賞の説明を聞いたときは、菊本さんの活動と日本文化の向上と何の関係があるのか違和感を持った。しかし、菊本さんがケニアで実践しているストリート・チルドレンや貧困層の自立支援の活動は我々日本人が昔から大切にしている「働くことの尊さ」とか「自助努力の重視」といった価値観を体現しており、日本の文化そのものではないかと考えるに至り、この賞は菊本さんにふさわしい賞であると納得できた。尤も、この解釈はどうも小生の独りよがりのようで、この賞の海外の受賞者には上記の授賞基準がそのまま適用されず、「日本の国際貢献に民間レベルで尽くした人」に贈呈された例が多いとのことである。いずれにせよ、ケニア在住の日本人の仲間がこのような伝統ある立派な賞を受賞されたことに対して、心からの祝意を表したい。      </summary>
       <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.tsuko40.com/xforum/">
<![CDATA[<div>「マグレブ」とは「西方」または「日の没する大地」の意味で、アフリカ北西部の３カ国、モロッコ、アルジェリア、チュニジアの総称である（注）。マグレブ諸国は同じアフリカ大陸にあるものの、ケニアを初めとするサブサハラ諸国（サハラ砂漠以南の諸国）とは別の世界を作っている。先般、そのマグレブに属するモロッコとチュニジアを訪問してきたので、２回に分けてその様子を紹介したい。（注）マグレブにリビア、更にはモーリタニアを含める場合がある。<br /><br /><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/517.gif"><span class="blogleft"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/517.gif" alt="" /></span></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/518.gif"><span class="blogright"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/518.gif" alt="" /></span></a>モロッコはマグレブ諸国の中で最も西に位置しており、北部は地中海の西出口であるジブラルタル海峡を挟んでスペイン爺やperlaさんの住むスペインと隣接し、南部はアルジェリア、西サハラと国境を接している（左の地図参照）。モロッコの国土面積は日本の約1.2倍で、地形は沿岸部の肥沃な平野、中央部の山脈、南部の砂漠など多様性に富む。人口は3300万人強、人種構成はアラブ人が65%、ベルベル人が30%等である。言語は公用語がアラブ語だが、仏語も良く通用する。一人当たり所得は1730ドル（2005年）で、ケニアより３倍強豊かである（右はモロッコの国旗）。<br />モロッコはアラウィー朝のムハンマド６世を国王とする立憲君主国（王国）である。国王はイスラム経の開祖ムハンマドの直系の子孫とされ、国教であるイスラム教の国教の最高指導者でもある。<br />モロッコの歴史を略述すれば、先住民はベルベル人であるが、紀元前12世紀頃からフェニキア人、カルタゴ人、ローマ人等の侵入を受けた。７世紀にはアラブ人が進出し、８世紀には開祖ムハンマドの子孫がイドリス朝を開いた。その後、いくつかのイスラム王朝が興亡や分裂を繰り返しつつも基本的にはサルタン（イスラム王朝の国王）による統治が続いた。19世紀に入ると欧州列強による進出が始まり、1912年には国土の大半をフランスの保護領、一部の地中海側をスペイン領とする分割統治が行われるようになった。1930年代頃から民族運動が起こり、第２次大戦後の1956年に現国王の祖父であるベン・ユーセフ（ムハンマド５世）がフランスから独立を勝ち取り、現在に至っている。<br /><br />モロッコは地形、気候、歴史、風土、文化のいずれの面から見ても、多様で豊かな表情を持つ国であり、観光の人気スポットを回るだけでもフルに１週間から10日間は必要とされている。４泊５日の小生の旅ではモロッコの魅力の一部しか紹介できそうもないが、以下、小生の旅程に沿ってモロッコの旅を始めたい。<br /><br /><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/519.jpg"><span class="blogleft"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/519.jpg" alt="" /></span></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/520.jpg"><span class="blogright"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/520.jpg" alt="" /></span></a>【第１日目】昼過ぎにカサブランカ空港に到着。空港には小生夫妻のモロッコ滞在中、レンタカーの運転手を務めてくれるアーメッド君が迎えてくれ、彼が運転する車でそのままモロッコ最大の都市カサブランカの観光に出掛けた。カサブランカで一番の見どころは、８年を費やして1993年に完成したモロッコ最大のモスクである「ハッサン２世モスク」である（左の写真）。このモスクは大西洋に面した８万人収容可能という広大な敷地に建てられており、ミナレット（塔）の高さは200mと世界一を誇っている。ちなみにハッサン２世は現在の国王の父で、このモスクの完成を見た後、1999年に逝去した。<br />モスク見学の後、アイン・ディアブと呼ばれるビーチリゾートや市内の見どころをざっと車で回った。小生は映画「カサブランカ」の舞台となったRick’s Caf&eacute; Americaの見学を楽しみにしていたが、残念ながら開店時間外で入れなかった。<br />カサブランカ観光の後、広瀬駐モロッコ大使のお勧めに従い、日本が建設を支援した鉄道の列車（右の写真）に乗ってモロッコの首都ラバトに向かい、その日はラバトに泊まった。<br /><br /><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/521.jpg"><span class="blogleft"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/521.jpg" alt="" /></span></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/522.jpg"><span class="blogright"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/522.jpg" alt="" /></span></a>【第２日目】ラバとから車で世界遺産の都市メクネスに向かった。メクネスはアラウィー朝のムーレイ・イスマイル王が同時代のフランス国王であったルイ14世に対抗して壮大な首都にすべく造った都市であるが、首都であったのは17-18世紀にかけての約半世紀に過ぎなかった。ここで特に有名なのはマンスール門とムーレイ・イスマイル廟（左の写真はその入口）である。<br />メクネスの後は、やはり世界遺産の都市フェズに行った。フェズはモロッコ最初のイスラム王朝であるイドリス朝の都として、９世紀初頭に建設された都市である。11世紀後半には首都がマラケシュに移ったが、13世紀中頃に再びフェズがマリーン朝の下で首都となった。<br />フェズのメディナ（旧市街）は世界一の迷宮都市といわれており、両側に店が並ぶ狭い道が迷路のように不規則に何本も作られている。道はアーケードや高い建物で覆われているので昼間でも暗く、初めてだと案内人なし歩くのは難しい（右の写真はメディナの狭い路地）。このメディナの迷路を歩いていると、何か別の世界に迷い込んだような不思議な感覚にとらわれた。<br /><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/525.jpg"><span class="blogleft"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/525.jpg" alt="" /></span></a>フェズのメディナを建物の屋上から眺めたのが左の写真である。クリックして頂くと、建物が地面を覆うようにびっしりと立ち並んでいる様子が良く分かる。この写真の中央よりやや右の大きな屋根は有名なカラウィン・モスクの屋根である。ここは世界最古の大学の一つでもあり、長い間、イスラムの思想、文化、文明に関する研究の中心であった。<br />フェズの中にタンネリと呼ばれる「なめし皮染色職人街」がある。その染色の作業場も建物の屋上から見ることができるが、作業場から立ち上ってくる臭いは誠に強烈であった。<br />フェズの郊外にはモザイクと陶器の工房がある。両方とも手作りによる昔ながらのやり方で作られており、特にモザイクは色鮮やかで美しかった。工房見学の後、車でラバトに戻り、その夜もラバトに泊まった。<br />（下の写真は左から「タンネリの染色作業場」、「フェズ訪問の思い出に購入した皮のスツール（買ってから中に詰め物をする）」、「丸テーブル用のモザイク」）<br /><br /><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/523.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/523.jpg" alt="" /></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/524.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/524.jpg" alt="" /></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/526.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/526.jpg" alt="" /></a><br /><br /><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/527.jpg"><span class="blogleft"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/527.jpg" alt="" /></span></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/528.jpg"><span class="blogright"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/528.jpg" alt="" /></span></a>【第３日目】午前中は車でラバト市内を観光した。ラバトは古くから商業貿易で栄えていた都市である。フランスの保護国となった1912年にモロッコの首都となり、現在に至っている。<br />左の写真はムワッヒド朝時代の1195年に建設に着手されたミナレットである「ハッサンの塔」である。高さ88mの予定がマンスール王の死亡により工事が中断し未完の塔となったが、それでも44mの高さを誇っている。<br />右の写真はフランスから1956年に独立を勝ち取った国王である「ムハンマド５世の霊廟」である。４つの入口と内部の四隅に真紅の衣装をまとった衛兵が立っていた。前国王ハッサン２世の石棺もこの霊廟に安置されている。<br />この外、ローマ時代の遺跡やウダイヤのカスバ（城塞）と庭園なども見学した。観光の後、広瀬大使とともに旧知のタイ大使夫妻との昼食を楽しんだ。午後は約350km離れた内陸のマラケシュに車で向かった。途中から高速道路でなくなるが、アーメッド君の巧みな運転技術により夕方７時頃にマラケシュに到着し、ホテルにチェックインできた。<br /><br /><br /><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/529.jpg"><span class="blogleft"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/529.jpg" alt="" /></span></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/533.jpg"><span class="blogright"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/533.jpg" alt="" /></span></a>【第４−５日】第４日目は最も楽しみにしていたマラケシュ観光の日である。マラケシュはモロッコのほぼ中央に位置し、標高は450mである。背後に3-4000m級の山が並ぶオート・アトラス山脈が聳え、それを越えるとサハラ砂漠が広がっている。マラケシュはフェズの次に古い都市で、11世紀後半にムラービト朝の首都となった。その後、13世紀中頃に首都がフェズに戻ったものの、15世紀中頃にサアード朝が再びマラケシュを首都とした。マラケシュは北と南、即ち、太平洋とサハラ砂漠の中間で、主要都市とは道路で繋がれているため、貿易・商工業、そして文化の中心としても栄えた。マラケシュではブーゲンビリア、ミモザ、ジャスミンなどの花々が一年中咲いており、「モロッコの楽園」とも呼ばれている。言うまでもなく、マラケシュも世界遺産に指定されている。<br />左の写真はマラケシュのシンボル、クトゥビアである。クトゥビアは元はモスクであったが、モスク部分は取り壊され、今は高さ67mの美しいミナレットのみが残っている。<br />マラケシュの中心はジャマ・エル・フナ広場である。この広場には夕方になると屋台が出て、ヘビ使い・火喰い・曲芸・楽団など様々な大道芸人が集まり、毎夕、お祭り広場となる。この広場にはモロッコ名物である右の写真の水売りおじさんも大勢、登場する。この広場は旧市街（メディナ）の入口でもある。メディナの道の両側には小さな店が立ち並び、それが品物毎に同じ場所に集まってスーク（市場）を作っている。道はフェズほど狭くはないが、やはり迷路に近い複雑な路地である。<br />マラケシュには素晴らしい建物や庭園が数多くある。スペインのアルハンブラ宮殿を思わせるバイア宮殿、古いが壮大なエル・バディ宮殿、サアード朝の墳墓群、ベン・ユーセフ・モスク、クッバ・バアディン、マラケシュ博物館、工芸博物館、そしてメナラ庭園、アグダル庭園、マジョレル庭園など、数え切れない多いが、頑張ってそのほとんどを見学した。<br />（下の写真は左から「マラケシュから望むオート・アトラス山脈」、「ジャマ・エル・フナ広場の大道楽団」、「バイア宮殿」）<br /><br /><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/532.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/532.jpg" alt="" /></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/531.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/531.jpg" alt="" /></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/530.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/530.jpg" alt="" /></a><br /><br />第４日の夜はマラケシュ郊外のディナー・ショウ・レストランである「シェ・アリ」に出掛けた。シェ・アリは全体の敷地が11haもある大きなレストランで、駐車場には何台もの観光バスが並んでいた。食事はテントの中で取り、そのテントに次から次に先住民であるベルベル人が訪れ、歌や踊りを披露する仕組みである。食後には外の馬場で馬の曲乗りのショウなどもあり、スケールの大きさに驚かされた。その夜は再び、マラケシュに泊まった。最終日の第５日目は旅行日で、半日かけて車でカサブランカ空港まで戻り、次の目的地であるチュニジアに向けて飛び発った。<br />以上、歴史好きの小生はモロッコの４つの首都を回る旅を組んだが、海洋リゾート、山登りやトレッキング、半砂漠地帯のカスバ（要塞）見学、砂漠ツアーなど、外にも沢山、モロッコの魅力はある。機会があれば、また行ってみたい国である。最後に、モロッコは見どころが多い上に、解説も適宜必要と思われたので、今回は随分と長いケニア通信になってしまったことをお断りするとともに、最後まで読んで下さった読者に感謝を表したい。<br />（下の写真は左から「シェ・アリで踊るベルベル人女性」、「シェ・アリでの馬の曲乗り」、「日本の観光客に人気のモロッコの砂漠（購入した絵葉書のスキャン）」）<br /><br /><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/534.jpg"><img 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/>最初に賞の説明を聞いたときは、菊本さんの活動と日本文化の向上と何の関係があるのか違和感を持った。しかし、菊本さんがケニアで実践しているストリート・チルドレンや貧困層の自立支援の活動は我々日本人が昔から大切にしている「働くことの尊さ」とか「自助努力の重視」といった価値観を体現しており、日本の文化そのものではないかと考えるに至り、この賞は菊本さんにふさわしい賞であると納得できた。尤も、この解釈はどうも小生の独りよがりのようで、この賞の海外の受賞者には上記の授賞基準がそのまま適用されず、「日本の国際貢献に民間レベルで尽くした人」に贈呈された例が多いとのことである。いずれにせよ、ケニア在住の日本人の仲間がこのような伝統ある立派な賞を受賞されたことに対して、心からの祝意を表したい。<br /> <img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/smil3dbd4d6422f04.gif" alt="" />  <img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/smil3dbd4d4e4c4f2.gif" alt="" />  <img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/smil3dbd4dbc14f3f.gif" alt="" /> </div>]]>
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		<title>サンブルにおけるヒョウとの出会いと一味違ったサファリ</title>
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		<published>2007-02-16T00:00:00+09:00</published>
		<updated>2007-02-16T16:15:19+09:00</updated>
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			<name>satoru</name>
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		<summary type="html" xml:base="http://www.tsuko40.com/xforum/" xml:lang="ja">小生はこれまで日帰りも含めるとサファリに十数回は行ったが、ヒョウには出会っていなかった。そのヒョウを目当てに先週末にサンブル国立保護区（National Reserve = NR）へ行ったところ、遂にヒョウに出会うとともに、一味違ったサファリを楽しむことができた。今回はこのサンブルでのサファリの模様を紹介したい。サンブルNRはナイロビの北方約230km、ケニア山より更に北のサバンナ地帯に所在している。エワソ・ンギロ川を挟んですぐ南側にバファロー・スプリングNRがあり、この２つのNRは地形･地質や動植物相が似かよっているため、一括してサンブルNRと呼ばれることが多く、ここでも広義の用語法に従うこととしたい。広義のサンブルNRでも総面積は約300平方kmでそれほど広くはないが、サンブルにはサイを除くほとんどの動物が棲息しており、小生のお目当てのヒョウを見られる確率も高い。サンブル一帯はサバンナではあるものの、低潅木とアカシアが多く、マサイマラのように広々とした草原ではない。また、エワソ・ンギロ川（左の写真）の周辺には大きな樹木も数多く生えている。サンブルＮＲを含むケニア山から北方の地域はマサイ族と近い遊牧民族であるサンブル族が住む地域である。小生が泊まったラーセンズ・テント・キャンプでは色艶やかな飾りを纏ったサンブル族の戦士が守衛として雇われおり、サルなどの野生動物から宿泊客や屋外テーブル上の食べ物を守る役目を果たしていた（右の写真）。ヒョウはご存知のようにネコ科の大型肉食獣である。体つきはがっしりとしているが、動きはしなやかで優雅であり、地上よりも樹上や岩上での生活を好む。警戒心が強くて単独行動をしていることが多い上に、行動するのは主として夜であり、また、数も多くないので見つけるのが難しい。未だにヒョウを見たことがなかった小生には、黄褐色の皮膚に黒い斑点というあの色鮮やかで優雅な姿を一度は見てみたいという思いが募っていた。このため、特に重要な予定が無かった先週末に急遽、サンブルNRに出掛けることとしたわけである。サンブルでのサファリのチャンスは４回あった。１回目のサファリはサンブルに到着した金曜日の午後４時からであったが、２時間余り経ってもヒョウにはお目にかかれなかった。諦めてキャンプに帰りかけたところで、何とその帰り道で歩いているヒョウの後姿を発見した。しかし、ヒョウは後ろを振り向かずにそのまま草叢に入っていったので、小生達が見たのはヒョウの後姿と長い尻尾だけであった（下の左の写真）。２回目は土曜日の朝６時半からのサファリであった。この時は２時間近く経った頃に、我々のサファリ・カーに別のサファリ・カーから無線で連絡が入り、急いで駆けつけてみると、ヒョウが木の枝の上で悠然と寝そべっていた。残念ながらヒョウはサファリ用道路の反対側に顔を向けて眠っていたため、見ることができたのはこの時も、後姿だけであった。しかし、ほんの一瞬、顔を上げて体を舐めたのでヒョウの横顔の写真を撮ることができた（下の真ん中の写真）。３回目は同じく土曜日の午後４時からで、２回目と同じ木の場所に行ってみると、ヒョウは依然としてその木の枝の上で眠っていた。待つこと暫し、嬉しいことにヒョウが顔を上げてくれたので、すかさず撮ったのが下の右の写真である。上の枝が陰を作っているため、写真撮影にとって光線の具合は良くないが、憧れのヒョウ君の顔を正面から撮影できただけでも満足すべきであろう。何せヒョウ目当てでサンブルに来たのに、ヒョウに出会えずに帰った気の毒な友人もいるのだから・・・。（ヒョウの写真は是非ともクリックして、ご覧下さい）ヒョウ以外の動物としては、まず、ゾウが一杯いた。ゾウは天敵がいないのでサンブルでも増える一方である。ただ、ゾウの食欲は極めて旺盛で草を食い尽くすのみならず、塩分を摂るため木の皮をはがして木を枯らすので、砂漠化を引起している。サンブルにおいても自然破壊の元凶であるゾウの増加を食い止める何らかの対策の必要性を痛感した。ビッグ・ファイブの一角を占めるライオン、バッファロー、チーターもいた。インパラ、グランド・ガゼル、ディグ・ディグといったレイヨウ類、バブーン、ヴェルベット・モンキー、マングース、ワニなどにもお目にかかった。マサイマラほど動物が多くないせいであろうか、通常群れをなしているレイヨウ類も含めて、これらの動物は潅木の中から順番に１、２頭ずつ登場し、まるで出番を待って出てくる舞台役者のようであった。サンブルには「サンブルのビッグ・ファイブ」と呼ばれる他では見ることが難しい５つの動物もいる。その５つの動物とは、模様の輪郭が４−８角形でハッキリしている「アミメキリン」、長くて真っ直ぐな角を持ち、歌舞伎役者の隈取りのような顔をしている「オリックス」、顔や首が細長く、後脚で立って木の葉を食べるという珍しい習性を持つレイヨウ類の「ゲレヌク」、普通のシマウマより体や顔が大きく、縞が細かい「グレビーシマウマ」、オスの首や脚が青灰色の「ソマリ・ダチョウ」である。ヒョウを見た後の４回目のサファリでは特に「サンブルのビッグ・ファイブ」を探したが、しっかりと見られたのは最初の３つの動物だけで、ソマリ・ダチョウは遠くから見ただけ、グレビーシマウマには最後まで出会わずに終わってしまった。（右上の写真は立って木の葉を食べている「ゲレヌク」。下の写真は左から、「アミメキリン」、「オリックス」、「ゲレヌク」）サンブルは鳥類が豊富な所としても知られている。鳥の数が多いため、右の写真のように鳥の巣で一杯の木が所々で見受けられ、サファリ・カーの運転手は「これがサンブルのクリスマス・ツリーだ」と言って笑っていた。沢山の鳥の中から、これまでケニア通信で紹介していない鳥を中心にいくつかを紹介すれば、下の写真の上段は左から、「アミジロスズメ・ハタオリ」、「ツキノワテリムク」、「ライラック・ニシブッポウソウ」である。これらはいずれも小振りな鳥である。この内、ツキノワテリムクはムクドリの一種であるが、まん丸な目玉に加えて、上半身は金属光沢を帯びた紺と黒、胸は月の輪上の白帯、腹は赤っぽい褐色と誠に色鮮やかで目立つ鳥であった。その英語名はSuperb Starling (華麗なムクドリ)と聞いて、なるほどと納得した次第である。下の写真の下段は左から、「ゴマバラワシ」、「ワシフクロウ」、「アフリカオオノガン」で、いずれも大型の鳥である。写真のゴマバラワシは未だ若鳥と思われる。ワシフクロウは見ての通り、夜行性の鳥である。最後のアフリカオオノガンは全長80-120mもあり、サバンナを歩き回ってエサを探していた。以上、今回のサンブルのサファリでは、憧れのヒョウをしっかり見た上に、変わった動物とか大小様々な鳥に出会うという一味違ったサファリを楽しめ、収穫は少なくなかったと満足している。</summary>
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<![CDATA[<div>小生はこれまで日帰りも含めるとサファリに十数回は行ったが、ヒョウには出会っていなかった。そのヒョウを目当てに先週末にサンブル国立保護区（National Reserve = NR）へ行ったところ、遂にヒョウに出会うとともに、一味違ったサファリを楽しむことができた。今回はこのサンブルでのサファリの模様を紹介したい。<br /><br /><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/501.jpg"><span class="blogleft"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/501.jpg" alt="" /></span></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/502.jpg"><span class="blogright"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/502.jpg" alt="" /></span></a>サンブルNRはナイロビの北方約230km、ケニア山より更に北のサバンナ地帯に所在している。エワソ・ンギロ川を挟んですぐ南側にバファロー・スプリングNRがあり、この２つのNRは地形･地質や動植物相が似かよっているため、一括してサンブルNRと呼ばれることが多く、ここでも広義の用語法に従うこととしたい。広義のサンブルNRでも総面積は約300平方kmでそれほど広くはないが、サンブルにはサイを除くほとんどの動物が棲息しており、小生のお目当てのヒョウを見られる確率も高い。サンブル一帯はサバンナではあるものの、低潅木とアカシアが多く、マサイマラのように広々とした草原ではない。また、エワソ・ンギロ川（左の写真）の周辺には大きな樹木も数多く生えている。<br />サンブルＮＲを含むケニア山から北方の地域はマサイ族と近い遊牧民族であるサンブル族が住む地域である。小生が泊まったラーセンズ・テント・キャンプでは色艶やかな飾りを纏ったサンブル族の戦士が守衛として雇われおり、サルなどの野生動物から宿泊客や屋外テーブル上の食べ物を守る役目を果たしていた（右の写真）。<br /><br />ヒョウはご存知のようにネコ科の大型肉食獣である。体つきはがっしりとしているが、動きはしなやかで優雅であり、地上よりも樹上や岩上での生活を好む。警戒心が強くて単独行動をしていることが多い上に、行動するのは主として夜であり、また、数も多くないので見つけるのが難しい。未だにヒョウを見たことがなかった小生には、黄褐色の皮膚に黒い斑点というあの色鮮やかで優雅な姿を一度は見てみたいという思いが募っていた。このため、特に重要な予定が無かった先週末に急遽、サンブルNRに出掛けることとしたわけである。<br />サンブルでのサファリのチャンスは４回あった。１回目のサファリはサンブルに到着した金曜日の午後４時からであったが、２時間余り経ってもヒョウにはお目にかかれなかった。諦めてキャンプに帰りかけたところで、何とその帰り道で歩いているヒョウの後姿を発見した。しかし、ヒョウは後ろを振り向かずにそのまま草叢に入っていったので、小生達が見たのはヒョウの後姿と長い尻尾だけであった（下の左の写真）。<br />２回目は土曜日の朝６時半からのサファリであった。この時は２時間近く経った頃に、我々のサファリ・カーに別のサファリ・カーから無線で連絡が入り、急いで駆けつけてみると、ヒョウが木の枝の上で悠然と寝そべっていた。残念ながらヒョウはサファリ用道路の反対側に顔を向けて眠っていたため、見ることができたのはこの時も、後姿だけであった。しかし、ほんの一瞬、顔を上げて体を舐めたのでヒョウの横顔の写真を撮ることができた（下の真ん中の写真）。<br />３回目は同じく土曜日の午後４時からで、２回目と同じ木の場所に行ってみると、ヒョウは依然としてその木の枝の上で眠っていた。待つこと暫し、嬉しいことにヒョウが顔を上げてくれたので、すかさず撮ったのが下の右の写真である。上の枝が陰を作っているため、写真撮影にとって光線の具合は良くないが、憧れのヒョウ君の顔を正面から撮影できただけでも満足すべきであろう。何せヒョウ目当てでサンブルに来たのに、ヒョウに出会えずに帰った気の毒な友人もいるのだから・・・。（ヒョウの写真は是非ともクリックして、ご覧下さい）<br /><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/503.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/503.jpg" alt="" /></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/504.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/504.jpg" alt="" /></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/505.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/505.jpg" alt="" /></a><br /><br /><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/509.jpg"><span class="blogright"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/509.jpg" alt="" /></span></a>ヒョウ以外の動物としては、まず、ゾウが一杯いた。ゾウは天敵がいないのでサンブルでも増える一方である。ただ、ゾウの食欲は極めて旺盛で草を食い尽くすのみならず、塩分を摂るため木の皮をはがして木を枯らすので、砂漠化を引起している。サンブルにおいても自然破壊の元凶であるゾウの増加を食い止める何らかの対策の必要性を痛感した。<br />ビッグ・ファイブの一角を占めるライオン、バッファロー、チーターもいた。インパラ、グランド・ガゼル、ディグ・ディグといったレイヨウ類、バブーン、ヴェルベット・モンキー、マングース、ワニなどにもお目にかかった。マサイマラほど動物が多くないせいであろうか、通常群れをなしているレイヨウ類も含めて、これらの動物は潅木の中から順番に１、２頭ずつ登場し、まるで出番を待って出てくる舞台役者のようであった。<br />サンブルには「サンブルのビッグ・ファイブ」と呼ばれる他では見ることが難しい５つの動物もいる。その５つの動物とは、模様の輪郭が４−８角形でハッキリしている「アミメキリン」、長くて真っ直ぐな角を持ち、歌舞伎役者の隈取りのような顔をしている「オリックス」、顔や首が細長く、後脚で立って木の葉を食べるという珍しい習性を持つレイヨウ類の「ゲレヌク」、普通のシマウマより体や顔が大きく、縞が細かい「グレビーシマウマ」、オスの首や脚が青灰色の「ソマリ・ダチョウ」である。ヒョウを見た後の４回目のサファリでは特に「サンブルのビッグ・ファイブ」を探したが、しっかりと見られたのは最初の３つの動物だけで、ソマリ・ダチョウは遠くから見ただけ、グレビーシマウマには最後まで出会わずに終わってしまった。<br />（右上の写真は立って木の葉を食べている「ゲレヌク」。下の写真は左から、「アミメキリン」、「オリックス」、「ゲレヌク」）<br /><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/506.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/506.jpg" alt="" /></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/507.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/507.jpg" alt="" /></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/508.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/508.jpg" alt="" /></a><br /><br /><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/510.jpg"><span class="blogright"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/510.jpg" alt="" /></span></a>サンブルは鳥類が豊富な所としても知られている。鳥の数が多いため、右の写真のように鳥の巣で一杯の木が所々で見受けられ、サファリ・カーの運転手は「これがサンブルのクリスマス・ツリーだ」と言って笑っていた。<br />沢山の鳥の中から、これまでケニア通信で紹介していない鳥を中心にいくつかを紹介すれば、下の写真の上段は左から、「アミジロスズメ・ハタオリ」、「ツキノワテリムク」、「ライラック・ニシブッポウソウ」である。これらはいずれも小振りな鳥である。この内、ツキノワテリムクはムクドリの一種であるが、まん丸な目玉に加えて、上半身は金属光沢を帯びた紺と黒、胸は月の輪上の白帯、腹は赤っぽい褐色と誠に色鮮やかで目立つ鳥であった。その英語名はSuperb Starling (華麗なムクドリ)と聞いて、なるほどと納得した次第である。<br />下の写真の下段は左から、「ゴマバラワシ」、「ワシフクロウ」、「アフリカオオノガン」で、いずれも大型の鳥である。写真のゴマバラワシは未だ若鳥と思われる。ワシフクロウは見ての通り、夜行性の鳥である。最後のアフリカオオノガンは全長80-120mもあり、サバンナを歩き回ってエサを探していた。<br />以上、今回のサンブルのサファリでは、憧れのヒョウをしっかり見た上に、変わった動物とか大小様々な鳥に出会うという一味違ったサファリを楽しめ、収穫は少なくなかったと満足している。<br /><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/511.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/511.jpg" alt="" /></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/512.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/512.jpg" alt="" /></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/513.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/513.jpg" alt="" /></a><br /><br /><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/514.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/514.jpg" alt="" /></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/515.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/515.jpg" alt="" /></a><a href="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/photos1/516.jpg"><img src="http://www.tsuko40.com/xforum/uploads/thumbs1/516.jpg" alt="" /></a></div>]]>
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