ケニア通信 - 世界遺産の旧市街とクルージングが楽しめる「ラム島の旅」
ラム島の旧市街はケニアで世界文化遺産に登録されている唯一の場所である。先日、そのラム島を訪問して、旧市街を観光するとともに、ラム島周辺のクルーズを楽しんできたので、その様子をご紹介したい。
小生が見るところ、ケニアには世界遺産に値する多くの場所があるが、ケニア政府が登録申請に熱心でないためか、これまでに世界遺産に登録されているのは、自然遺産としてケニア山国立公園とトゥルカナ湖国立公園群、文化遺産としてラム旧市街の計3箇所に過ぎない。
ケニア唯一の文化遺産を擁するラム島はケニア東部のインド洋沿岸に浮かぶ小さな島で、モンバサから約300km北上した地点にある。ラム島から更に北へ約100km行くと、もうソマリア国境に達する。
ラム旧市街は14-15世紀にアラブ人が交易のために築いた街である。交易先は当初はアラブ圏であったが、17-19世紀になると、ヨーロッパ、アメリカ新大陸、インド、中国にも拡大し、特に象牙と奴隷の輸出の中継地として大いに栄えた。この繁栄期、特に19世紀にスワヒリ・ハウスと呼ばれるイスラム風の立派な建物が沢山作られた。ちなみに、スワヒリとは、アラブ語で「海岸に住む人」という意味であるが、アラブの影響を受けた東アフリカの文化や言語を指す言葉としても使われる。
ラムの繁栄は英国が1873年に奴隷市場の閉鎖を命じたため突然に終止符が打たれた。その後、ラムの経済は急速に縮小し、ラム島は開発にも取り残され忘れられた辺境の島となっていた。しかし、1970年代から観光地として徐々に注目を浴びるようになり、2001年にはラム旧市街がユネスコの世界文化遺産として登録された。
小生夫婦はナイロビから軽飛行機で約1時間半飛んで、滑走路のある隣のマンダ島に入り、そこからモーター船に10分間ほど乗ってラム島の港に到着した(右上はラム島をモーター船上から撮った写真)。
ラム旧市街は縦1000m、横300mの長方形に収まってしまうほどの小さな地区であり、治安も良いので、容易に徒歩で観光できる。というより、ラム島ではそもそも法令で車の持込みが禁止されていて、地区長官用のジープがたった1台あるだけなので、車の使いようがない。それに、車が通れるほどの広さがある道は海岸沿いの通りだけである。
下の最初の2枚の写真はハランベー通りという名のラム旧市街のメイン・ストリートであるが、ご覧のようにリヤカーがようやく通れる程度の広さしかない。ラム島では車が無いので、リヤカーや次の写真のロバが荷物を運ぶ手段となっている。旧市街にはこうした細い路地が迷路のように入り組んでおり、これは侵入者から町を守るためであると言われている。少し前にモロッコとチュニジアに訪れた小生には両国のメディナ(旧市街)を思い出させるものがあり、アラブ人やイスラム教徒の都市作りの好みや伝統を反映していると感じた。なお、タンザニアのザンジバルは同様なイスラム風の旧市街がある東アフリカの島として知られている。
旧市街を歩いていると、下の右の写真に見られるような立派な扉の入口を備えた家を数多く見かける。この扉は厚い木板に彫刻を施したものであり、その多くはラム島繁栄期の19世紀に作られたスワヒリ・ハウスの入口の扉である。



ラム旧市街の見どころとして挙げられるのは、まず、ラム博物館である。その入口横の庭にはその昔に大英帝国が使った真鍮製の大砲が置かれている(右の写真)。館内の展示物はラム島の文化や歴史を知る上で役に立つものが多い。例えば、東アフリカでも他にない展示物としてスィワと呼ばれる笛の形をした象牙製と真鍮製の楽器もある(下の左の写真)。スィワは長さが5mもあり、支配者のシンボルとしての役割も果たしていたとのことである。
次のスワヒリ家屋博物館は18世紀に建てられたスワヒリ・ハウスを博物館にしたものである。展示品としてはベッドや椅子を始めとする家具、中国から輸入した食器類などがあり、当時の豊かな暮し振りをしのぶことができる(下の真ん中の写真)。
ラム砦環境博物館は1823年に当時のスルタン(イスラムの領主)によってラムを守る砦として作られたものである。見るべき展示物は少ないが、屋上レベルの回廊や見張り用の塔を含めた建物は大きくて立派である(下の右の写真)。



ラム島の住民の大部分はイスラム教徒であり、旧市街には多くのモスクがある。下の左の写真はラムで最も古いプワニ・モスクである。このモスクは14世紀末に建てられたが、外観は普通の建物のようである。下の真ん中の写真はサウジ・アラビアの援助によって建てられたリヤド・モスクであり、小生が見たラム島のモスクの中では最も立派なものであった。
ラム島は暑くて湿気も高いためか、島の住民は余り働いている様子がない。その中で最も良く働いているのはロバである。ロバは大人しく文句も言わずに、荷物も人間をも運んでいる。そのロバのために、ラム旧市街には「ロバの聖域」なる施設が作られており、無料でロバの病気や怪我の治療が受けられる(下の右の写真)。




ラム旧市街の観光は一日もあれば十分である。このため、ラム島の宿泊ホテルでは当然といった顔つきでダウ船による周辺の海でのクルージングを勧められる。このオプショナル・クルージング・ツアーには若干の選択肢があったが、我々は「マンダ島のマングローブ鑑賞とマンダ小島(マンダ・トト)周辺でのシュノーケリング」と「ラム島シェラの海からの鑑賞とマンダ島のビーチ並びにタクワ遺跡の見学」の2つのツアーを組み合わせることとした。
左上の写真は我々が乗った観光用のダウ船である。ダウ船は元々はアラブの帆船であるが、観光用の船は速度や操作性を考慮して、帆を外してモーターで動くようにしている。しかし、クルーズの途中で右上の写真のような昔ながらの本格的なダウ船に何隻も出会った。三角帆に風を受けて走るダウ船の姿は誠に優雅で格好良くて美しかった。

ラム島を出てマンダ島に近づくと左の写真のようなマングローブの林が見えてきた。ご承知のように、マングローブは塩水の湿地に育成する熱帯・亜熱帯地方の樹木の総称である。東南アジアでは海老の養殖のためマングローブ林の過剰伐採が問題になっていたが、マンダ島は砂浜となっている場所を除くと周囲を豊かなマングローブ林で覆われている様子で、津波などの災害防止や地球環境保護の観点からとても好ましく感じた。
マンダ小島周辺には美しい珊瑚礁があり、潜ると泳ぎ回る色とりどりの美しい熱帯魚を観賞できる。熱帯魚の密度は小生がかつて潜ったことがある沖縄の慶良間諸島付近の海以上ではないかと思われるが、水中カメラが無いので、その様子を写真で読者にお見せできないのは誠に残念である。
ラム島には旧市街から南へ3kmほど行ったところにシェラと言う海洋リゾートの町がある。右上の写真の海岸沿いの白い建物はペポニ(天国)・ホテルと言う名の最高級リゾート・ホテルである。シェラには白砂のビーチもあり、シーズンには欧米から沢山の観光客がやって来るとのことであった。
シェラを観光ダウ船から眺めながら、我々が上陸したのは、その近くにあるマンダ島のマンダ・ビーチである。そこでは昼食を取るだけで泳ぐ時間は無かったものの、砂浜や海は自然そのもので誠に美しかった(下の左の写真)。
次の上陸地点はマンダ島のタクワ遺跡である。タクワには15-17世紀にスワヒリ・タウンがあり、ピーク時には2500名もの人々が住んでいた。しかし、17世紀後半に、住民は何らかの理由で(水不足と推測されている)タクワの町を放棄して、シェラに移住した。遺跡は相当傷んではいるが、下の真ん中の写真のジャマー・モスクやその右の写真のピラー・トゥーム(柱墓)はなかなか立派な建造物であった。また、タクワにはびっくりするほど大きなバオバオの木が生えていたが、それらの木の樹齢はタクワの繁栄期頃にまで遡るとのことであった。
小生のラム島訪問記は以上の通りであるが、世界文化遺産のラム旧市街の観光とラム島周辺の海のクルージングという組合せのラム島ツアーは、今後のプロモーション活動次第では、ケニアに一層の観光客を惹きつける潜在力を秘めていると感じた。



ケニア唯一の文化遺産を擁するラム島はケニア東部のインド洋沿岸に浮かぶ小さな島で、モンバサから約300km北上した地点にある。ラム島から更に北へ約100km行くと、もうソマリア国境に達する。
ラム旧市街は14-15世紀にアラブ人が交易のために築いた街である。交易先は当初はアラブ圏であったが、17-19世紀になると、ヨーロッパ、アメリカ新大陸、インド、中国にも拡大し、特に象牙と奴隷の輸出の中継地として大いに栄えた。この繁栄期、特に19世紀にスワヒリ・ハウスと呼ばれるイスラム風の立派な建物が沢山作られた。ちなみに、スワヒリとは、アラブ語で「海岸に住む人」という意味であるが、アラブの影響を受けた東アフリカの文化や言語を指す言葉としても使われる。
ラムの繁栄は英国が1873年に奴隷市場の閉鎖を命じたため突然に終止符が打たれた。その後、ラムの経済は急速に縮小し、ラム島は開発にも取り残され忘れられた辺境の島となっていた。しかし、1970年代から観光地として徐々に注目を浴びるようになり、2001年にはラム旧市街がユネスコの世界文化遺産として登録された。
小生夫婦はナイロビから軽飛行機で約1時間半飛んで、滑走路のある隣のマンダ島に入り、そこからモーター船に10分間ほど乗ってラム島の港に到着した(右上はラム島をモーター船上から撮った写真)。
ラム旧市街は縦1000m、横300mの長方形に収まってしまうほどの小さな地区であり、治安も良いので、容易に徒歩で観光できる。というより、ラム島ではそもそも法令で車の持込みが禁止されていて、地区長官用のジープがたった1台あるだけなので、車の使いようがない。それに、車が通れるほどの広さがある道は海岸沿いの通りだけである。
下の最初の2枚の写真はハランベー通りという名のラム旧市街のメイン・ストリートであるが、ご覧のようにリヤカーがようやく通れる程度の広さしかない。ラム島では車が無いので、リヤカーや次の写真のロバが荷物を運ぶ手段となっている。旧市街にはこうした細い路地が迷路のように入り組んでおり、これは侵入者から町を守るためであると言われている。少し前にモロッコとチュニジアに訪れた小生には両国のメディナ(旧市街)を思い出させるものがあり、アラブ人やイスラム教徒の都市作りの好みや伝統を反映していると感じた。なお、タンザニアのザンジバルは同様なイスラム風の旧市街がある東アフリカの島として知られている。
旧市街を歩いていると、下の右の写真に見られるような立派な扉の入口を備えた家を数多く見かける。この扉は厚い木板に彫刻を施したものであり、その多くはラム島繁栄期の19世紀に作られたスワヒリ・ハウスの入口の扉である。
次のスワヒリ家屋博物館は18世紀に建てられたスワヒリ・ハウスを博物館にしたものである。展示品としてはベッドや椅子を始めとする家具、中国から輸入した食器類などがあり、当時の豊かな暮し振りをしのぶことができる(下の真ん中の写真)。
ラム砦環境博物館は1823年に当時のスルタン(イスラムの領主)によってラムを守る砦として作られたものである。見るべき展示物は少ないが、屋上レベルの回廊や見張り用の塔を含めた建物は大きくて立派である(下の右の写真)。
ラム島の住民の大部分はイスラム教徒であり、旧市街には多くのモスクがある。下の左の写真はラムで最も古いプワニ・モスクである。このモスクは14世紀末に建てられたが、外観は普通の建物のようである。下の真ん中の写真はサウジ・アラビアの援助によって建てられたリヤド・モスクであり、小生が見たラム島のモスクの中では最も立派なものであった。
ラム島は暑くて湿気も高いためか、島の住民は余り働いている様子がない。その中で最も良く働いているのはロバである。ロバは大人しく文句も言わずに、荷物も人間をも運んでいる。そのロバのために、ラム旧市街には「ロバの聖域」なる施設が作られており、無料でロバの病気や怪我の治療が受けられる(下の右の写真)。
左上の写真は我々が乗った観光用のダウ船である。ダウ船は元々はアラブの帆船であるが、観光用の船は速度や操作性を考慮して、帆を外してモーターで動くようにしている。しかし、クルーズの途中で右上の写真のような昔ながらの本格的なダウ船に何隻も出会った。三角帆に風を受けて走るダウ船の姿は誠に優雅で格好良くて美しかった。
マンダ小島周辺には美しい珊瑚礁があり、潜ると泳ぎ回る色とりどりの美しい熱帯魚を観賞できる。熱帯魚の密度は小生がかつて潜ったことがある沖縄の慶良間諸島付近の海以上ではないかと思われるが、水中カメラが無いので、その様子を写真で読者にお見せできないのは誠に残念である。
ラム島には旧市街から南へ3kmほど行ったところにシェラと言う海洋リゾートの町がある。右上の写真の海岸沿いの白い建物はペポニ(天国)・ホテルと言う名の最高級リゾート・ホテルである。シェラには白砂のビーチもあり、シーズンには欧米から沢山の観光客がやって来るとのことであった。
シェラを観光ダウ船から眺めながら、我々が上陸したのは、その近くにあるマンダ島のマンダ・ビーチである。そこでは昼食を取るだけで泳ぐ時間は無かったものの、砂浜や海は自然そのもので誠に美しかった(下の左の写真)。
次の上陸地点はマンダ島のタクワ遺跡である。タクワには15-17世紀にスワヒリ・タウンがあり、ピーク時には2500名もの人々が住んでいた。しかし、17世紀後半に、住民は何らかの理由で(水不足と推測されている)タクワの町を放棄して、シェラに移住した。遺跡は相当傷んではいるが、下の真ん中の写真のジャマー・モスクやその右の写真のピラー・トゥーム(柱墓)はなかなか立派な建造物であった。また、タクワにはびっくりするほど大きなバオバオの木が生えていたが、それらの木の樹齢はタクワの繁栄期頃にまで遡るとのことであった。
小生のラム島訪問記は以上の通りであるが、世界文化遺産のラム旧市街の観光とラム島周辺の海のクルージングという組合せのラム島ツアーは、今後のプロモーション活動次第では、ケニアに一層の観光客を惹きつける潜在力を秘めていると感じた。
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コメント
| 投稿者 | スレッド |
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| skyblue | 投稿日時: 2008-12-13 18:31 更新日時: 2008-12-13 18:31 |
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あった!あった!見つけましたよ、大使。地図にラム島を。ケニアの小島がちゃんと記されていました。もっともこの縮尺地図ではおそらく点のような存在なので形にはなっていないのですが。ラム(Lamu)島の文字と旧市街、世界文化遺産の赤いマークが堂々と記されていました。さすが我が愛用の*知れば知るほどみえてくる*「なるほど世界知図帳」。「地」ではなく「知」というところがミソですね。三重県の島で言えばどの程度の大きさなのでしょうね。神島?菅島?それとも答志島?こんな小さな島にも世界遺産が登録されていたなんて驚きです。なるほど、旧市街の迷路のような路地は4月号の通信で紹介されたモロッコの路地を連想させます。島独特のゆったりとした時間が流れているのでしょうね。
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| satoru | 投稿日時: 2008-12-13 18:31 更新日時: 2008-12-13 18:31 |
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skyblueさん、コメントありがとう。三重県の島の面積については、インターネットで直ちに、神島は0.96㎢、菅島は4.52㎢、答志島は6.98㎢であることが分かりました。ラム島については面積を記した本やサイトが見当たらず(これがケニアなのです)、地図を見て計算したところ、45㎢程度のようです。ということで、ラム島は三重県の島々よりは相当大きいけれど、島の形を長方形に直してみると、横9km、縦5km程度の可愛い島です。ちなみに、ラム旧市街の面積は15.6ha=0.156㎢で島のホンの一部を占めているだけです。でも、島の総人口12,000人の多くは旧市街とその周辺に住んでいるようです。ラム島ではご指摘のとおり、時間の流れはゆったりしていますね。小生も、宿となったスワヒリハウスの風通しの良いベランダで、長椅子に座ってダウ船が行き交う海を眺めていると、慌しいナイロビとは別世界にいるように感じました。シェラやマンダ島のビーチでも、ゆったりとした時間の流れを楽しめそうです。ラム島には観光開発の潜在力はあるにしても、観光客で込み合うほど開発が進まない方が良いのかもしれません。
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| atoriperla | 投稿日時: 2008-12-13 18:31 更新日時: 2008-12-13 18:31 |
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スワヒリ語発音だと xoops は「uupusu」となる…! どうもありがとうございました!! いやあ、ウープスウープスって呪文唱えていると、ラム島までヒューッと一飛びでいけそうです!!!、、、、そうですか、アラブはケニアまで染めているんですか。華麗な装飾を施した扉、とても興味ある顔をしています。シーダー材かな? ケニアにもあったっけな? 砂浜のように眩しい白の象嵌の部分はまさしく骨…?それとも石? いやあ、写真1枚でもう世界はいっぱいに広がりーーーーまさしくウープスのおかげです?!
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| satoru | 投稿日時: 2008-12-13 18:31 更新日時: 2008-12-13 18:31 |
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Jambo(こんにちは)、perlaさん。コメント、ありがとう。このところ忙しかったのでザァーとしか40会HPをチェックする暇がなくて、本当に長い間、perlaさんのコメントに気付かずに大変失礼しました。そう、スワヒリ語は綴りと発音が一致しており、Xは綴りに無いので発音しないのです。スワヒリ語の発音はローマ字とほとんど同じなので、我々日本人は意味が分からなくても、結構上手にスワヒリ語の文章を読むことができます。アラブはインド洋を通して古くから東アフリカと関係を有しており、ケニアの場合、8世紀頃からアラブ人がダウ船でインド洋岸に来ていたようです。スワヒリ・ハウスの扉の白い部分は多分動物の骨か象牙であると思いますが、こうした長い付き合いの歴史の中でアフリカの材料を使ってアラブ風のデザインによる素晴しい扉を作る工夫が生まれてきたのでしょうね。Kwa heri ya kuonana(さようなら、また会いましょう)。
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