ケニア通信 - 最新エントリー
最終回となる今回は、まず、これまでケニア通信に取り上げたいと思ったものの諸般の事情で取り上げられなかったテーマについて一言触れたい。その後、ケニアで過ごした3年間を小生なりに総括して、ケニア通信の締めくくりとしたい。
ケニアは魅力溢れる国であり、日本との関係も深いことから、ケニア通信で取り上げるテーマに困ることはなかった。むしろ、取り上げたかったのに諸般の事情で実現しなかったテーマが少なからずあるので、それらを見所、人物、事柄の順に手短に紹介しておきたい。

「見所」として取材を始めたものの、取り上げることを断念したのは「アフリカ大地溝帯(African Great Rift Valley)」である。アフリカ大地溝帯はアフリカ東部を北から南に縦断する巨大な渓谷で、地球の裂け目とも言われる。ケニアでは北西部のツルカナ湖からほぼ真南方向に大地溝帯が貫いており、ナイロビから西北に50km余りドライブすると大地溝帯の展望地点(ヴュー・ポイント)に行ける。この展望地点から肉眼で大地溝帯を見下ろすと、その深さや幅の広さを実感でき、今も働いている東アフリカを東西に分離しようとする力が今後も続けば、数十万年〜数百万年後にはアフリカ大陸が大地溝帯で分裂してしまうという説にも肯けた。しかし、写真ではどうしても大地溝帯の凄さを写し出せず、また、この展望地点以外で大地溝帯の良い写真を撮れる場所もなかったので、結局、取り上げることを断念した。所詮、2次元の写真では大地溝帯の3次元の凄さを捉えることが困難ということであろう。なお、アフリカ大地溝帯は地質学上の研究対象となっているだけでなく、人類学者によって人類誕生の地としても大いに注目されていることを付言しておきたい(左上の写真は「大地溝帯の展望地点の看板」、右上と左下は「展望地点から見下ろした大地溝帯の景色」。クリックすれば少しは大地溝帯らしさが分かるかも)。

青い湖水と茶色の湖岸との対比が美しく、世界自然遺産でもある「ツルカナ湖」も取り上げたかった見所である。ただ、ツルカナ湖周辺は武装強盗団が出没する危険な地域として我が大使館の渡航情報で実質的に訪問禁止としているため、小生が訪問するわけにはいかなかった。
ゾウの棲息地として有名な「ツァボ国立公園」も取り上げるべき見所であったが、ケニアに行ってから何度もゾウは自然破壊の元凶と聞かされたので、ツァボに行く気を失った。しかし、帰国寸前にツァボで17年間ゾウの研究を続けている中村千秋さんにお会いした所、「大使、それは偏見に満ちた短絡的な考えで、ゾウが可哀相です」と諭され、今では行けば良かったとも思っている(右の写真は「自然破壊の元凶か否か議論のあるゾウの群れ」)。
「人物」で取り上げられなかったのは在留邦人の3人の方々である。下の写真左の「小林俊一さん」はケニアの長距離ランナーを発掘して、日本の学校や企業に斡旋・紹介するコーディネーターの仕事をされている。1977年にケニアに住み始めてから30年間、ワキウリやワイナイナのようなオリンピックのメダリストを初めとして、数多くの優秀なランナーを発掘されている(写真は横須賀高校同窓会HPより拝借したもの)。
真ん中の写真の「岸田袈裟さん」は1973年に食物栄養学の調査で最初にケニアを訪問し、その後、1975年から結婚してケニアに定住、85年にはNGO「少年ケニアの友」を立ち上げ、ケニアの貧困層の生活支援や生活改善指導を続けられている。彼女は日本の遠野のかまどをケニアのエンザロ村に紹介し、貴重な薪の使用効率を飛躍的に高めるとともに、生水を飲んで死ぬことの多かった赤ちゃんの死亡率を激減させたという貢献で良く知られている。
右の写真の「関亨さん」は日本の一流企業の社員であったが、1972年に奥様に連れられてケニアに来られた。81年に「日本人倶楽部」と称する日本人のための社交クラブ兼和食レストランを開業し、持ち前の熱意と研究心でケニアに来る日本人が必ず立ち寄るほど美味しくて人気が高いレストランにされた。83年にケニアを訪問された皇太子ご夫妻(今の天皇陛下ご夫妻)も関さんが作った料理をお召し上がりになった由である。
これらの方々の取り上げ断念の理由は、小林さんと岸田さんについては活動の現場であるケニアの地方に取材に行く時間が取れなかったこと、関さんについては数年前に日本人倶楽部を譲渡されたのでオーナー料理長の姿を取材できなかったことによる。



「事柄」で取り上げられなかったのは、まず「円借款(円ベースの低利融資)」による対ケニア経済援助である。円借款は国際協力銀行(JIBIC)を通じて主として運輸、電力、通信などの経済インフラ建設向けに供与されている。ケニアはサブサハラ・アフリカで最初かつ最大の円借款供与国であり、1973年以来、合計31件の案件に対して1843億円の円借款が承諾されている。案件の中にはモンバサ空港整備、新ニヤリ橋建設など日本の評判を高めたインフラ建設事業も多く、現在はソンドゥ・ミリウ水力発電所の建設事業が進行中である。小生はいくつかの円借款プロジェクト・サイトを訪問したものの、良い写真を取るチャンスがなかったため、取り上げることを断念した。
次に、「ケニア人の物の考え方、価値観、宗教、社会的慣習、風俗や習慣、各部族の特徴」といった事柄も取り上げられなかった。これらは興味深いテーマであるが、抽象的で、写真を駆使してヴィジュアルに現地を紹介するというケニア通信の基本的手法に馴染まなかったため、取り上げを断念した。
(下の写真は、左から「岩元JIBICナイロビ事務所長」、「新ニヤリ橋」、「建設中のソンドゥ・ミリウ水力発電所」で、後の2枚の写真は岩本所長から拝借したものである。)



さて、ここから3年間のケニア生活の総括に移り、いくつかの感想や思いを記してみたい。
第1に、小生にとってアフリカは全く予想外で未知の任地であったため、多少の不安を抱いて赴任したが、住んでみるとケニアは気候に恵まれた暮らしやすく魅力的な地であり、仕事も「国造りを手伝う」というやりがいのあるものであった。全体として公私ともに充実してやりがいがある楽しい3年間を送ることができ、今では一度しかない人生において、このように得がたい機会が与えられたことに感謝している。
第2に、この3年間、ケニアは政治面でも経済面でも大きな前進を示し、こういう良い時期に大使を務められたことは誠に好運であった。小生が着任したのは2004年9月初めであるが、それは24年間も続いたモイ前大統領による独裁・専制・腐敗政権からキバキ現大統領の政権に交代して1年9ヵ月が経過した時であった。キバキ政権は経済再生戦略に沿って様々な政治・社会・経済改革を実施し、人権や表現の自由を尊重しながら腐敗防止のための様々な措置も導入し、モイ政権末期に低迷していたケニア経済を6%台の経済成長を達成するまでに回復させた。
ケニアには依然として所得・資産の格差は大きいという問題はあるものの、3年間の在任中に新しいビルが次々と建ち、レストランの新規オープンが続き、人々の暮らしが目に見えて改善している様子を見ることができたのは嬉しいことであった。

第3に、この3年間、ケニアを初めとする管轄国の要人、ケニア駐在の各国大使、在留邦人、当地への訪問客など実に多くの人々に出会い、交友を深めることができた。こうした多様・多彩な人々との交流を通じて学ぶことも多く、誠に有意義で楽しかった。
ケニアで出会った方々を個々に紹介することは困難ではあるが、特に印象深く、お世話にもなった数人の管轄国の要人についてのみ、小生と一緒に撮った写真を掲載して、敬意と謝意を示しておきたい。
【左の写真は「現実的で強力なリーダー振りが印象的だったカガメ・ルワンダ大統領で、昨年秋には彼の訪日が実現した」、右は「日本びいきで、日・ケニアの友好関係強化に格別の貢献をしてくれたマータイ前環境副大臣との最後のお別れ時」。下の写真はいずれも仲良しだったケニアの閣僚で、左から「ケニアに関する小生にとってのメンター(先生)とも言うべきムイラリア前財務(現環境)大臣」、「小生のために特別に送別昼食会を主催してくれたトゥジュ外務大臣」、「公邸での天皇誕生日レセプションに主賓で参加してくれたキツイ貿易産業大臣」である。】



第4に、事前に大使館と在留邦人との関係改善が必要との忠告を受けており、着任と同時に「お客様本位の(Client−orientedな)大使館」を目指す方針を示し、館員とともに、大使館に来る方々に対して迅速かつ親切な対応を心掛けるとともに、日本人会の行事などにも積極的に参加することとした。このお陰で、大使館と在留邦人社会との関係は大幅に改善され、在留邦人社会の一体感も高まった。治安の悪いケニアで、この3年間、事件や事故で死亡したり、回復不能の怪我を負ったりした日本人が皆無であった背景には、在留邦人の間でしっかりと治安や生活情報を共有できていたこともあると思っている。
また、小生にとって在留邦人との方々とのお付合いは公務に追われる忙しい日々の中での「オアシス」であり、ゆっくりとリラックスできるリフレッシュの良い機会でもあった(右の大写しの写真は「日本人会有志による小生夫妻の送別パーティ終了時の集合写真」)。
第5に、アフリカ全体について一言記せば、多くの日本人はアフリカを「紛争、貧困、飢餓、エイズ、低成長等にあえぐ救いようがない大陸」と見ていると思うが、近年のアフリカは必ずしもそうではない。全体として紛争やそれに伴う難民は減少しており、経済成長率は5%以上を記録している。こうした平和と繁栄に向けた前進の背景には、良好な外部環境もあろうが、いわゆる「アフリカン・ルネッサンス」の考え方がアフリカ諸国に徐々に浸透・定着しつつあるという大きな潮流も感じられる。
「アフリカン・ルネッサンス」というのは21世紀をアフリカ再生の世紀にするために1990年代後半に南アフリカのムベキ現大統領(当時は副大統領)が提唱した考え方で、そのエッセンスは「アフリカ自身のオーナーシップにより、紛争・独裁・汚職・貧困などに代表される古いアフリカを改革し、民主主義・政治的安定・良好なガバナンスと汚職の追放・市場原理に基づく経済運営などによる国造りによって、新しいアフリカを目指す」というものである。
小生としてはアフリカ諸国の自助努力と先進国の適切な支援により、新しいアフリカを目指す潮流が本格化し、アフリカが「救いようがない大陸」から「明るい方向に動き出した希望と可能性を秘めた大陸」に変貌することを心から期待しつつ、離任した次第である(左の写真は「アフリカン・ルネッサンスの提唱者であるムベキ南アフリカ大統領」で、ウィキペディアより拝借したもの)。
まだ書きたいことや書き残したことがあるものの、以上で小生のケニア生活3年間の総括としたい。
最後に、ケニア通信を終えるに当たり、小生の注文に応じてケニア通信のブログを作り、トラブルには直ちに対応してくれたWebマスターの栗山君、小生の取材に快く応じてくれたケニアに住む様々な方々、いつもセンス溢れるコメントを送り、励ましてくれたskyblueさんやatoriperlaさん、そして当初の頃に比して長文化が著しいケニア通信を忍耐強く最後まで読んでくれた読者の皆様に心から御礼を申し上げたい。ケニア通信により、皆様のケニアやアフリカに対する関心が少しでも高まり、アフリカに関わる問題により目を向けたり、現地を訪問したりする方々が増加すれば、望外の幸せである。(完)
ケニアは魅力溢れる国であり、日本との関係も深いことから、ケニア通信で取り上げるテーマに困ることはなかった。むしろ、取り上げたかったのに諸般の事情で実現しなかったテーマが少なからずあるので、それらを見所、人物、事柄の順に手短に紹介しておきたい。
ゾウの棲息地として有名な「ツァボ国立公園」も取り上げるべき見所であったが、ケニアに行ってから何度もゾウは自然破壊の元凶と聞かされたので、ツァボに行く気を失った。しかし、帰国寸前にツァボで17年間ゾウの研究を続けている中村千秋さんにお会いした所、「大使、それは偏見に満ちた短絡的な考えで、ゾウが可哀相です」と諭され、今では行けば良かったとも思っている(右の写真は「自然破壊の元凶か否か議論のあるゾウの群れ」)。
「人物」で取り上げられなかったのは在留邦人の3人の方々である。下の写真左の「小林俊一さん」はケニアの長距離ランナーを発掘して、日本の学校や企業に斡旋・紹介するコーディネーターの仕事をされている。1977年にケニアに住み始めてから30年間、ワキウリやワイナイナのようなオリンピックのメダリストを初めとして、数多くの優秀なランナーを発掘されている(写真は横須賀高校同窓会HPより拝借したもの)。
真ん中の写真の「岸田袈裟さん」は1973年に食物栄養学の調査で最初にケニアを訪問し、その後、1975年から結婚してケニアに定住、85年にはNGO「少年ケニアの友」を立ち上げ、ケニアの貧困層の生活支援や生活改善指導を続けられている。彼女は日本の遠野のかまどをケニアのエンザロ村に紹介し、貴重な薪の使用効率を飛躍的に高めるとともに、生水を飲んで死ぬことの多かった赤ちゃんの死亡率を激減させたという貢献で良く知られている。
右の写真の「関亨さん」は日本の一流企業の社員であったが、1972年に奥様に連れられてケニアに来られた。81年に「日本人倶楽部」と称する日本人のための社交クラブ兼和食レストランを開業し、持ち前の熱意と研究心でケニアに来る日本人が必ず立ち寄るほど美味しくて人気が高いレストランにされた。83年にケニアを訪問された皇太子ご夫妻(今の天皇陛下ご夫妻)も関さんが作った料理をお召し上がりになった由である。
これらの方々の取り上げ断念の理由は、小林さんと岸田さんについては活動の現場であるケニアの地方に取材に行く時間が取れなかったこと、関さんについては数年前に日本人倶楽部を譲渡されたのでオーナー料理長の姿を取材できなかったことによる。
「事柄」で取り上げられなかったのは、まず「円借款(円ベースの低利融資)」による対ケニア経済援助である。円借款は国際協力銀行(JIBIC)を通じて主として運輸、電力、通信などの経済インフラ建設向けに供与されている。ケニアはサブサハラ・アフリカで最初かつ最大の円借款供与国であり、1973年以来、合計31件の案件に対して1843億円の円借款が承諾されている。案件の中にはモンバサ空港整備、新ニヤリ橋建設など日本の評判を高めたインフラ建設事業も多く、現在はソンドゥ・ミリウ水力発電所の建設事業が進行中である。小生はいくつかの円借款プロジェクト・サイトを訪問したものの、良い写真を取るチャンスがなかったため、取り上げることを断念した。
次に、「ケニア人の物の考え方、価値観、宗教、社会的慣習、風俗や習慣、各部族の特徴」といった事柄も取り上げられなかった。これらは興味深いテーマであるが、抽象的で、写真を駆使してヴィジュアルに現地を紹介するというケニア通信の基本的手法に馴染まなかったため、取り上げを断念した。
(下の写真は、左から「岩元JIBICナイロビ事務所長」、「新ニヤリ橋」、「建設中のソンドゥ・ミリウ水力発電所」で、後の2枚の写真は岩本所長から拝借したものである。)
さて、ここから3年間のケニア生活の総括に移り、いくつかの感想や思いを記してみたい。
第1に、小生にとってアフリカは全く予想外で未知の任地であったため、多少の不安を抱いて赴任したが、住んでみるとケニアは気候に恵まれた暮らしやすく魅力的な地であり、仕事も「国造りを手伝う」というやりがいのあるものであった。全体として公私ともに充実してやりがいがある楽しい3年間を送ることができ、今では一度しかない人生において、このように得がたい機会が与えられたことに感謝している。
第2に、この3年間、ケニアは政治面でも経済面でも大きな前進を示し、こういう良い時期に大使を務められたことは誠に好運であった。小生が着任したのは2004年9月初めであるが、それは24年間も続いたモイ前大統領による独裁・専制・腐敗政権からキバキ現大統領の政権に交代して1年9ヵ月が経過した時であった。キバキ政権は経済再生戦略に沿って様々な政治・社会・経済改革を実施し、人権や表現の自由を尊重しながら腐敗防止のための様々な措置も導入し、モイ政権末期に低迷していたケニア経済を6%台の経済成長を達成するまでに回復させた。
ケニアには依然として所得・資産の格差は大きいという問題はあるものの、3年間の在任中に新しいビルが次々と建ち、レストランの新規オープンが続き、人々の暮らしが目に見えて改善している様子を見ることができたのは嬉しいことであった。
ケニアで出会った方々を個々に紹介することは困難ではあるが、特に印象深く、お世話にもなった数人の管轄国の要人についてのみ、小生と一緒に撮った写真を掲載して、敬意と謝意を示しておきたい。
【左の写真は「現実的で強力なリーダー振りが印象的だったカガメ・ルワンダ大統領で、昨年秋には彼の訪日が実現した」、右は「日本びいきで、日・ケニアの友好関係強化に格別の貢献をしてくれたマータイ前環境副大臣との最後のお別れ時」。下の写真はいずれも仲良しだったケニアの閣僚で、左から「ケニアに関する小生にとってのメンター(先生)とも言うべきムイラリア前財務(現環境)大臣」、「小生のために特別に送別昼食会を主催してくれたトゥジュ外務大臣」、「公邸での天皇誕生日レセプションに主賓で参加してくれたキツイ貿易産業大臣」である。】
第4に、事前に大使館と在留邦人との関係改善が必要との忠告を受けており、着任と同時に「お客様本位の(Client−orientedな)大使館」を目指す方針を示し、館員とともに、大使館に来る方々に対して迅速かつ親切な対応を心掛けるとともに、日本人会の行事などにも積極的に参加することとした。このお陰で、大使館と在留邦人社会との関係は大幅に改善され、在留邦人社会の一体感も高まった。治安の悪いケニアで、この3年間、事件や事故で死亡したり、回復不能の怪我を負ったりした日本人が皆無であった背景には、在留邦人の間でしっかりと治安や生活情報を共有できていたこともあると思っている。また、小生にとって在留邦人との方々とのお付合いは公務に追われる忙しい日々の中での「オアシス」であり、ゆっくりとリラックスできるリフレッシュの良い機会でもあった(右の大写しの写真は「日本人会有志による小生夫妻の送別パーティ終了時の集合写真」)。
第5に、アフリカ全体について一言記せば、多くの日本人はアフリカを「紛争、貧困、飢餓、エイズ、低成長等にあえぐ救いようがない大陸」と見ていると思うが、近年のアフリカは必ずしもそうではない。全体として紛争やそれに伴う難民は減少しており、経済成長率は5%以上を記録している。こうした平和と繁栄に向けた前進の背景には、良好な外部環境もあろうが、いわゆる「アフリカン・ルネッサンス」の考え方がアフリカ諸国に徐々に浸透・定着しつつあるという大きな潮流も感じられる。
小生としてはアフリカ諸国の自助努力と先進国の適切な支援により、新しいアフリカを目指す潮流が本格化し、アフリカが「救いようがない大陸」から「明るい方向に動き出した希望と可能性を秘めた大陸」に変貌することを心から期待しつつ、離任した次第である(左の写真は「アフリカン・ルネッサンスの提唱者であるムベキ南アフリカ大統領」で、ウィキペディアより拝借したもの)。
まだ書きたいことや書き残したことがあるものの、以上で小生のケニア生活3年間の総括としたい。
最後に、ケニア通信を終えるに当たり、小生の注文に応じてケニア通信のブログを作り、トラブルには直ちに対応してくれたWebマスターの栗山君、小生の取材に快く応じてくれたケニアに住む様々な方々、いつもセンス溢れるコメントを送り、励ましてくれたskyblueさんやatoriperlaさん、そして当初の頃に比して長文化が著しいケニア通信を忍耐強く最後まで読んでくれた読者の皆様に心から御礼を申し上げたい。ケニア通信により、皆様のケニアやアフリカに対する関心が少しでも高まり、アフリカに関わる問題により目を向けたり、現地を訪問したりする方々が増加すれば、望外の幸せである。(完)
今回は6月末に訪問したものの、紹介が遅れていた「マリンディ」と「ワタム」を取り上げたい。この両者ともインド洋に面した海洋リゾートのスポットであるが、それに留まらず、それぞれにユニークな見どころも擁している。

マリンディはモンバサから120kmほど北にある町で、遠浅の青い海と美しい珊瑚礁で知られている。欧米人、特にイタリア人やドイツ人に人気がある海洋リゾートの場所で、欧州が冬に入るクリスマスから3月にかけては、豊かな太陽の光を求めてやってくる欧州からの観光客で大変な賑わいをみせる。マリンディには15-16世紀にアフリカ東岸有数の港町として栄えた歴史もあり、その歴史的建造物を訪ねる楽しみもある。
小生はまずマリンディ海洋国立公園を訪ね、グラスボートで沖合の珊瑚礁に向かった。その日は前日に大雨が降ったため、海水の透明度はいまいちであったが、ボートの底を行き交う熱帯魚を楽しむことができた。なお、マリンディの海が最もきれいなのは8月から翌年の2月頃迄で、3−6月にはマリンディ北部のガラナ川から茶色の泥が流れ出してマリンディの海の透明度を下げるという問題があるようである(左上は「マリンディの海」、右上は「グラスボートから見えた熱帯魚」の写真)。
マリンディ国立公園から海岸沿いに北に向かうと、バスコ・ダ・ガマ・クロスと呼ばれる十字塔がある(右の写真)。この塔は南アフリカの喜望峰を回ってマリンディに到着したバスコ・ダ・ガマが、1498年に航海標識として建てたと云われている。塔の先端にある十字架はリスボン産の石で作ったものである。同年、バスコ・ダ・ガマはマリンディからインド西岸のカリカットに船で渡った。これが我々が世界史で学んだ「インド航路の発見」で、歴史上の大偉業とされている出来事である。しかし、実際はその当時、この航路はインドとの交易のルートとしてアラブ商人によって日常的に使われていた。バスコ・ダ・ガマがやったことはアラブ系の水先案内人イブン・マジットを雇って、船でカリカットに連れて行ってもらっただけである。世界の歴史がいかにヨーロッパを中心に書かれているかを再認識する思いがした。
バスコ・ダ・ガマ・クロスの近くに、ポルトガル教会と呼ばれる小さな教会がある。この教会もバスコ・ダ・ガマが建て、死亡した2人の乗組員を葬ったとの説もある。この説の真偽は不確かだが、1542年にインドに赴くフランシスコ・ザビエルがこの教会に立ち寄ったのは間違いないようだ。
マリンディはインド洋貿易を行うムスリムのアラブ商人によって12世紀頃から港町として開発され、15-16世紀に繁栄のピークを迎えた。当時のマリンディのスルタン(君主)や地元住民は来航する人々を大いに歓迎するホスピタリティの精神に溢れており、バスコ・ダ・ガマ一行も熱烈歓迎を受けたようである。
マリンディには中国との交流の記録も残っている。15世紀の初めに明の鄭和の艦隊が来航し、彼はその航海記録にマリンディを麻林地と表記して残した。16世紀にはマリンディのスルタンが明代の中国に首の長い動物を送り、中国ではその動物に伝説上の動物である麒麟(キリン)の名を与えた。さらに、かつてアラブ諸国に売られる奴隷の市が開かれていたジャミア・モスクに立つ柱墓(ピラー・ツーム)には回りに中国製の皿が埋め込まれていた。ジャミア・モスクはムスリム教徒以外は立入り禁止なので、外から写真を撮っただけだが、今や中国製の皿は全て研究者によって持ち去られてしまい、柱墓には皿跡のみが残っているとのことであった。
マリンディは15-16世紀初めの繁栄の後、アラブ商人の活動が衰えたこと、新たに進出してきたポルトガル商人は活動拠点をモンバサに置いたこと、内乱に敗れたことなどの理由で、長期の衰退に向かい、ケニア独立後に海洋リゾート地として開発される迄は忘れられた漁村となっていた。なお、マリンディには地元の漁民の網にかかった「生きている化石、シーラカンス」を展示している小さな海洋博物館もあった。
(下の写真は左から「ポルトガル教会」、「ジャミア・モスクと柱墓(写真中央の焼け焦げたような柱)」、「シーラカンスのはく製(光って見にくいが、こういう写真しか撮れなかった)」)



ワタムはモンバサから北に約100km、マリンディからは南に20kmほど行った小さな村である。ワタムの海と珊瑚礁、そして白い砂浜はマリンディ以上に美しいと言われ、近年、欧米の観光客の間で人気がとみに高まっている。小生はタートル・ベイ・ビーチ(亀湾の浜辺)・ホテルに泊まったが、その名が示唆するように、タートル・ベイには1−4月に海亀が卵を産み付けにやって来る。その浜辺の砂は真っ白で、歩くとキュッキュッと音がするほど細かい。残念ながら、今回は海に入る時間は無かったが、ワタムは珊瑚礁の保存状態が良く、海水の透明度も抜群なので、ダイバーの間の人気は極めて高いようである。
(下の写真は左から「タートル・ベイ・ビーチ・ホテルから撮影したワタムの海」、「同ホテルにある亀の親子の噴水」、「昼食を摂ったヘミングウェイズ・ホテルから撮影したワタムの海」)



ワタムの浜辺のすぐ南側には両岸を豊かなマングローブで覆われたミダ・クリークがあり、浜辺やクリークの後ろにはアラブコ・ソコケ森林保護区が広がっている。これらのマングローブ林や森林保護区は貴重種を含めた鳥(240種)と蝶(260種)の棲息地として知られ、時間があればガイド付きの森林散策ツアーも楽しめる。
アラブコ・ソコケ森林保護区の入口には「キペペオ蝶の館」と称する建物がある(右の写真)。この建物は愛知万博のケニア館で紹介された「キペペオ(蝶)・プロジェクト」の本部である。キペペオ・プロジェクトは地元の農民が森林保護区の樹木から採取した蝶のサナギを買い上げて、欧米諸国に輸出するというプロジェクトである。サナギが何時孵(かえ)って蝶になるかは正確に予測できるので、その羽化の日に合わせた誕生日や結婚式用のプレゼントとして人気があるという。プレゼントの箱を開けたら、そこから蝶々が飛び立つというのは、さぞかしロマンティックで美しいことであろう。
キペペオ・プロジェクトは地元の農民に森林保護区の樹木から所得を得る方法を提供して、彼らが森林保護区の樹木を伐採することなく大切に保護するようになることを目的としている。キペペオ蝶の館と同じ敷地内の別の建物では、やはり森林保護区の樹木を地元農民に保護してもらう目的で、「蜂蜜や(蜂の巣の成分から作った)ロウソクを作る」とか、「野性の蚕から絹布を作る」ことを地元農民に教えるプロジェクトも進行していた。
(下の写真は左から「サナギ」、「サナギから孵って飛び立った蝶(孵ってから飛び立つまで余り時間を要しない)」、「蜂蜜とロウソク」)



ワタムの海から4-5km内陸に入り、キペペオ蝶の館から少し奥に入った森の中には、「東アフリカのアンコール・ワット」と称される「ゲディ遺跡」がある。ゲディは現地化したアラブ人(アラブとアフリカの混ざったスワヒリ人?)によって13世紀頃に作られた町で、15 世紀には相当の人口を擁し、明の陶磁器やヴェネチアのガラス製品を輸入して使うなど、繁栄を極めていたようだ。しかし、16世紀に何度か外敵の侵入を受けて破損され、それに加えて井戸の水が涸れてしまったため、17-18世紀にはゲディの町は住民に放棄された。
その後、ゲディは森林に覆われ長らく忘れられていたが、1920年代に発見され、以後、徐々に遺跡の発掘調査が行われている。アンコール・ワットを訪れたことがある小生から見ると、ゲディをアンコール・ワットになぞらえるのは笑止千万ではあるものの、ゲディが相当立派な遺跡であることは確かである。ただ、ゲディについてはその存在を記録した歴史的な文書が一切残されていないため、遺跡とその出土品からゲディの町の歴史や人々の暮らしぶりを推測するほかは無く、未だに多くの謎が残されている。
(下の写真はいずれもゲディ遺跡で撮影したもので、左から「モスク」、「宮殿」、「遺跡を割るように生えている樹木」)



以上がマリンディとワタムの訪問記であるが、最後に一言付け加えれば、本来は両者ともゆっくりと滞在して美しい海や珊瑚礁、あるいは森林散策ツアーなどを楽しむ場所である。小生の今回の訪問は1泊2日という慌しいものであったが、次回は両者を合わせて少なくとも1週間は滞在し、ゆっくりと海洋スポーツも楽しみたいと思った次第である。
(追記)小生はほぼ3年間のケニア勤務を終え、8月21日から帰国しています。でも、9月下旬まで身分は駐ケニア大使のままで外務省に属し、後任への引継ぎ、各方面への挨拶回りや帰朝報告、残務整理などをやることになっています。それに加えて、日本で私生活を再開するための種々の手続きや買物などもあって、それなりに忙しい日々を送っています。
ケニアを去る前は実にいろいろな方々から送別会に招かれました。ケニアでこんなにも沢山の友人・知人に囲まれ、それらの方々にお世話になりながら、3年間の生活を送ってきたことを再認識する思いでした。今回はその中でも最もお世話になった在ケニア大使館館員夫妻による送別夕食会の際に撮った写真を、感謝の意を込めて大写しで掲載したいと思います。
小生はまずマリンディ海洋国立公園を訪ね、グラスボートで沖合の珊瑚礁に向かった。その日は前日に大雨が降ったため、海水の透明度はいまいちであったが、ボートの底を行き交う熱帯魚を楽しむことができた。なお、マリンディの海が最もきれいなのは8月から翌年の2月頃迄で、3−6月にはマリンディ北部のガラナ川から茶色の泥が流れ出してマリンディの海の透明度を下げるという問題があるようである(左上は「マリンディの海」、右上は「グラスボートから見えた熱帯魚」の写真)。
バスコ・ダ・ガマ・クロスの近くに、ポルトガル教会と呼ばれる小さな教会がある。この教会もバスコ・ダ・ガマが建て、死亡した2人の乗組員を葬ったとの説もある。この説の真偽は不確かだが、1542年にインドに赴くフランシスコ・ザビエルがこの教会に立ち寄ったのは間違いないようだ。
マリンディはインド洋貿易を行うムスリムのアラブ商人によって12世紀頃から港町として開発され、15-16世紀に繁栄のピークを迎えた。当時のマリンディのスルタン(君主)や地元住民は来航する人々を大いに歓迎するホスピタリティの精神に溢れており、バスコ・ダ・ガマ一行も熱烈歓迎を受けたようである。
マリンディには中国との交流の記録も残っている。15世紀の初めに明の鄭和の艦隊が来航し、彼はその航海記録にマリンディを麻林地と表記して残した。16世紀にはマリンディのスルタンが明代の中国に首の長い動物を送り、中国ではその動物に伝説上の動物である麒麟(キリン)の名を与えた。さらに、かつてアラブ諸国に売られる奴隷の市が開かれていたジャミア・モスクに立つ柱墓(ピラー・ツーム)には回りに中国製の皿が埋め込まれていた。ジャミア・モスクはムスリム教徒以外は立入り禁止なので、外から写真を撮っただけだが、今や中国製の皿は全て研究者によって持ち去られてしまい、柱墓には皿跡のみが残っているとのことであった。
マリンディは15-16世紀初めの繁栄の後、アラブ商人の活動が衰えたこと、新たに進出してきたポルトガル商人は活動拠点をモンバサに置いたこと、内乱に敗れたことなどの理由で、長期の衰退に向かい、ケニア独立後に海洋リゾート地として開発される迄は忘れられた漁村となっていた。なお、マリンディには地元の漁民の網にかかった「生きている化石、シーラカンス」を展示している小さな海洋博物館もあった。
(下の写真は左から「ポルトガル教会」、「ジャミア・モスクと柱墓(写真中央の焼け焦げたような柱)」、「シーラカンスのはく製(光って見にくいが、こういう写真しか撮れなかった)」)
ワタムはモンバサから北に約100km、マリンディからは南に20kmほど行った小さな村である。ワタムの海と珊瑚礁、そして白い砂浜はマリンディ以上に美しいと言われ、近年、欧米の観光客の間で人気がとみに高まっている。小生はタートル・ベイ・ビーチ(亀湾の浜辺)・ホテルに泊まったが、その名が示唆するように、タートル・ベイには1−4月に海亀が卵を産み付けにやって来る。その浜辺の砂は真っ白で、歩くとキュッキュッと音がするほど細かい。残念ながら、今回は海に入る時間は無かったが、ワタムは珊瑚礁の保存状態が良く、海水の透明度も抜群なので、ダイバーの間の人気は極めて高いようである。
(下の写真は左から「タートル・ベイ・ビーチ・ホテルから撮影したワタムの海」、「同ホテルにある亀の親子の噴水」、「昼食を摂ったヘミングウェイズ・ホテルから撮影したワタムの海」)
アラブコ・ソコケ森林保護区の入口には「キペペオ蝶の館」と称する建物がある(右の写真)。この建物は愛知万博のケニア館で紹介された「キペペオ(蝶)・プロジェクト」の本部である。キペペオ・プロジェクトは地元の農民が森林保護区の樹木から採取した蝶のサナギを買い上げて、欧米諸国に輸出するというプロジェクトである。サナギが何時孵(かえ)って蝶になるかは正確に予測できるので、その羽化の日に合わせた誕生日や結婚式用のプレゼントとして人気があるという。プレゼントの箱を開けたら、そこから蝶々が飛び立つというのは、さぞかしロマンティックで美しいことであろう。
キペペオ・プロジェクトは地元の農民に森林保護区の樹木から所得を得る方法を提供して、彼らが森林保護区の樹木を伐採することなく大切に保護するようになることを目的としている。キペペオ蝶の館と同じ敷地内の別の建物では、やはり森林保護区の樹木を地元農民に保護してもらう目的で、「蜂蜜や(蜂の巣の成分から作った)ロウソクを作る」とか、「野性の蚕から絹布を作る」ことを地元農民に教えるプロジェクトも進行していた。
(下の写真は左から「サナギ」、「サナギから孵って飛び立った蝶(孵ってから飛び立つまで余り時間を要しない)」、「蜂蜜とロウソク」)
ワタムの海から4-5km内陸に入り、キペペオ蝶の館から少し奥に入った森の中には、「東アフリカのアンコール・ワット」と称される「ゲディ遺跡」がある。ゲディは現地化したアラブ人(アラブとアフリカの混ざったスワヒリ人?)によって13世紀頃に作られた町で、15 世紀には相当の人口を擁し、明の陶磁器やヴェネチアのガラス製品を輸入して使うなど、繁栄を極めていたようだ。しかし、16世紀に何度か外敵の侵入を受けて破損され、それに加えて井戸の水が涸れてしまったため、17-18世紀にはゲディの町は住民に放棄された。
その後、ゲディは森林に覆われ長らく忘れられていたが、1920年代に発見され、以後、徐々に遺跡の発掘調査が行われている。アンコール・ワットを訪れたことがある小生から見ると、ゲディをアンコール・ワットになぞらえるのは笑止千万ではあるものの、ゲディが相当立派な遺跡であることは確かである。ただ、ゲディについてはその存在を記録した歴史的な文書が一切残されていないため、遺跡とその出土品からゲディの町の歴史や人々の暮らしぶりを推測するほかは無く、未だに多くの謎が残されている。
(下の写真はいずれもゲディ遺跡で撮影したもので、左から「モスク」、「宮殿」、「遺跡を割るように生えている樹木」)
以上がマリンディとワタムの訪問記であるが、最後に一言付け加えれば、本来は両者ともゆっくりと滞在して美しい海や珊瑚礁、あるいは森林散策ツアーなどを楽しむ場所である。小生の今回の訪問は1泊2日という慌しいものであったが、次回は両者を合わせて少なくとも1週間は滞在し、ゆっくりと海洋スポーツも楽しみたいと思った次第である。
(追記)小生はほぼ3年間のケニア勤務を終え、8月21日から帰国しています。でも、9月下旬まで身分は駐ケニア大使のままで外務省に属し、後任への引継ぎ、各方面への挨拶回りや帰朝報告、残務整理などをやることになっています。それに加えて、日本で私生活を再開するための種々の手続きや買物などもあって、それなりに忙しい日々を送っています。ケニアを去る前は実にいろいろな方々から送別会に招かれました。ケニアでこんなにも沢山の友人・知人に囲まれ、それらの方々にお世話になりながら、3年間の生活を送ってきたことを再認識する思いでした。今回はその中でも最もお世話になった在ケニア大使館館員夫妻による送別夕食会の際に撮った写真を、感謝の意を込めて大写しで掲載したいと思います。
ケニアでは多くのJICAボランティアが自分の持っている技術や経験を活かして現地の人々とともに暮らし働きながら、ケニアの国造りを支援している。今回はケニアで活躍するJICAボランティアの皆さんを紹介したい。

ケニアにおけるJICAボランティアの歴史は古く、その中核をなす青年海外協力隊(JOCV)のケニアへの派遣は1965年に始まった。ケニア政府もJICAボランティアの活動を高く評価しており、昨年12月にはケニアと日本の政府関係者、現役のJICAボランティア、ケニア在住の協力隊OB・OG等が出席して、ケニアへの協力隊派遣40周年を記念する式典が開催された(左の写真)。
ケニアに派遣された協力隊員の数は本年7月末までの累計で1278名となり、これは全世界の協力隊派遣国の中で3番目に多い数である。2003年からはシニア海外ボランティア(SV)の派遣も始まり、SVは本年7月末までの累計で19名となった。

ケニアで活動中のJICAボランティアは本年7月1日現在で、協力隊員58名、SV7名の計65名である。ボランティアの活動分野は教育文化、スポーツ、職業訓練、商業・観光、保健・医療、社会福祉、農林水産、土木、社会開発、環境など多岐に亘っている。
JICAボランティアの応募資格は協力隊員で20-39歳、SVで40-69歳であり、自分の技術や経験を途上国で活かしたいという強い意欲を持つ人が選ばれる。派遣期間は両者とも2年間である。この外に、派遣期間が短い短期ボランティア等も随時、派遣されている。
JICAボランティアはケニアに派遣される前に日本国内で語学や技術補完のために2ヶ月間の泊り込み研修を受ける。彼らはケニアに派遣されると、まず、ナイロビ市内のボランティア連絡所(右上の写真)に宿泊し、JICAケニア事務所でオリエンテーションを1週間受ける。同連絡所は相部屋で、蚕棚式の2段ベッドで寝ることになる(左の写真)。
その後、JICAボランティアは日本アフリカ文化交流協会(右の写真)に移り、協力隊員は1ヶ月間、SVは2週間、泊り込みでスワヒリ語の研修を受ける。ちなみに、同協会の前身は日本人向けのスワヒリ語学校として有名な星野学校である。JICAボランティアはこうした3ヶ月間前後に及ぶ準備期間を経て、それぞれの任地に赴くことになる。
JICAボランティアは着任と離任の際に大使である小生に対する表敬訪問にやってくる。小生も時折ボランティアの活動の視察と激励のためにケニア各地で働く彼らを訪問している。以下では、小生が訪問して話を聞いた何人かのボランティアを紹介することとしたい。なお、紹介は訪問した時点での記録に基づいており、現在では既にケニアを離れたボランティアもいることを予めお断りしておきたい。
ナイロビ勤務のJICAボランティアから紹介を始めると、まず、ケニア国立博物館でコンピューターの専門家として働いている青年協力隊員の「小林英之」君である(下の写真、左)。彼は主として同博物館の構内LAN拡張と再構築、新規サーバー導入と設定・利用といったネットワーク関係の仕事を担当している。彼は日本でシステム・エンジニア(SE)であったのでコンピューター関係の豊富な知識と経験を有しており、トラブル・シューターとして、同博物館の同僚のみならず、ケニアに住む全JICA関係者に頼られる存在でもある。彼によると、ケニア人の同僚は高いレベルの知識や技術を有しているものの、応用力が必要なトラブルを処理する経験が欠けており、同僚と一緒に作業をして自分の経験を伝えているとのことであった。
ナイロビ国立公園の動物孤児院では、短期ボランティアの「大木奈美」さんが獣医として働いている(同、真ん中)。彼女はかつてマラウィで協力隊員として家畜関係の獣医をしていたこともあり、アフリカは2度目である。5歳の頃からゾウとライオンのお医者さんになりたいとの夢を抱いていたので、今回は正にその夢が叶ったわけである。彼女は6人のケニア人飼育係と一緒に働いているが、真面目で素朴だったマラウィ人と異なり、ケニア人はもっと洗練されていてジョークも上手なので、愉快な付き合いができるとのことであった。
ケニア観光局(KTB)では、SVの「吉田攻一」さんが日本の観光市場の分析と戦略の構築を行っている(同、右)。吉田さんは英国系商社や京都府庁で観光関係の仕事をしていた経験を活かして、中央アジアのキルギスで観光業のSVを1年間やった。ただ、1年間ではやり残したことが多く、ケニアでの観光SVを応募した由である。ケニアは観光資源が多く、政府も観光客誘致に熱心なので、仕事はやりがいがあり、楽しいとのことであった。日本向けの戦略は数より質を重視し、余裕のあるベービー・ブーマーや新婚旅行客を主たる対象にする方針とのことである。



次にナイロビ近郊に移り、ルイルのケニア刑務所職員訓練校では、SVの「前田政博」さんが柔道を教えている(下の写真、左)。前田さんは福岡県警の出身で、柔道は7段の猛者である。県警退官後、大学で柔道師範をしていたが、電車に乗車中にJICA・SVの吊り広告を見て、柔道で国際貢献をしたいとの強い思いに駆られ、SVを応募した。英語の特訓を受け、健康診断をパスするため10kg減量するといった努力の後、トルコでのSVを経て、ケニアに来た。両国とも親日的で住みやすいが、ケニア人はトルコ人に比してあきらめが早く、根性が足りないとのことであった。なお、前田さんはルイルの少年柔道クラブも指導しており、礼儀や正しい心の大切さを教えている。
ティカの更正院では、協力隊員の「大井上啓志」君が野菜栽培を指導している(同、真ん中。なお、以下に登場するボランティアは全て協力隊員であるので肩書きを省略する)。彼は若い内に海外に行きたいとの希望を持っていたので、農大を卒業すると直ちに協力隊を応募してケニアに来た。更正院には様々な背景を持った児童がいるが、分け隔てなく一緒に働いて、児童達から信頼されている。収穫した野菜は更正院内の給食にも使われ、児童の栄養が格段に向上したそうだ。彼は又、児童に体育や美術も教えている。彼自身も苦しんでいる時にケニア人の同僚や児童に助けてもらったり、彼らからコミュニティの大切さを学んだりしているとのことであった。
キリマンボコの初等教員養成大学では、「石島裕太」君がコンピューターを教えている(同、右)。彼は日本の大学で理科の教員免許を取得し、大学を卒業後、直ちにケニアに来た。理科を教える筈が、ケニア教育省の急な要請変更に伴い、コンピューターを教えることとなった。悩んだ末に職場の同僚に対して、コンピューターの専門家でないことを告白し、その上で、書物による猛烈な勉強と同僚による支援により、短期間で一人前のコンピューター担当教師となった。彼は英語も含めて全てがチャレンジだが、機会が与えられたことやケニア人が自分を受け入れてくれたことに深く感謝しており、日本では失われつつある人との触合いの大切さを学んでいる由であった。




次にナイロビの北西方向に向かうと、フラミンゴで有名なナクル国立公園のKWS(ケニア野生生物公社)で「森川彰」君が生態調査を、「五反田環」さんが環境教育を担当している(左と右の写真)。
「森川君」は日本で健康食品の会社の研究員をやっていたが、大学の先輩が協力隊員としてラオスに行ったのに触発されて、協力隊員を応募した。ナクル湖は河川の流入のみで流出のない閉鎖水域であり、その周囲も含めたナクル国立公園はフェンスで囲まれた閉鎖的な生態系を形成している。森川君はこの特異な生態系に生息する動植物の個体数や相関関係を調査し、生息環境を作る雨量や水質の分析するなどの仕事を行っている。彼の功績はこれまで紙に記録されていたデータをコンピューター化したことであり、これによりデータの分析や交換が容易になった。彼は河川の水量の測定中にヒョウに異常接近したといった危ない目に遭ったこともあるが、仕事は楽しくてしょうがないとのことであった。
「五反田さん」は日本で専門商社やコンピューター関係の会社に勤務していたが、友人から自然の素晴らしさを教わり、森林インストラクターの資格を取った。その後、途上国の自然を守りたいとの思いが募り、協力隊に応募した。ナクルでは得意のパワーポイントを駆使して公立学校の児童生徒や地域住民に対する環境教育を実施する外、教材や展示物の改訂などを行っている。五反田さんはナクル国立公園内にあるKWSの宿舎に住んでいる。その宿舎にサファリ・アントという物騒な蟻が大量に入り込んで体をあちこち咬まれたとか、バブーン(ヒヒ)に宿舎の水タンクを壊され、中にウンチまでされてしまったとかの痛い経験もしたが、やはり仕事はとても楽しいとのことであった。
ナクルから更に西に行ったニャミラ県の保健事務所では、「松岡裕子」さんがエイズ対策のために頑張っている(下の写真、左)。松岡さんは日本の大学時代から社会福祉関係のNGO活動に従事していたが、卒業後も特定NPOに就職して日本に住む外国人の生活をサポートする仕事に携わった。協力隊員は小学校時代からの夢で、今回その夢を叶えてケニアに来たわけである。ニャミラではエイズの予防と治療の両方の活動を担当しており、地域住民に対してエイズに関する正しい知識を普及させる啓発活動を行うとともに、VCTセンター(自発的な相談と検診のための施設)・移動VCTや感染者のケア・センターでも働いている。やりがいがある仕事だが、ニャミラは人付き合いが余りにも濃密なため、人間関係の難しさに悩むこともある由である。
今後は逆に東方向に向かい、インド洋岸のコースト地方に行くと、マリンディ海洋国立公園のKWSで「多賀良太」君が環境教育を担当している(同、真ん中)。多賀君は日本の大学で多様性生物学を初めとする地球環境問題を勉強した後、見識を広めるために協力隊員を応募して、ケニアに来た。彼の前任者は主としてJICAが供与したグラスボートを使って小中学生に環境教育を施していたが、彼はマリンディ国立公園では環境教育以前にやるべきことが少なくないことに気が付いた。例えば、公園のガイド・ブックが無い、KWSの同僚はサファリについては詳しくても海洋生物については無知で、溺れた人の救命法も知らない等である。そこで彼は自発的に、マリンディの海やそこに住む生物のガイド・ブックを作る、救命法のトレーニングを企画するなどの貢献を行っている。
やはりコースト地方のワタム海洋国立公園のKWSでは、「戸田佳絵」さんが村落開発普及員として働いている(同、右)。戸田さんはケニアに来る前は日本の専門学校で動物の飼育・調教を勉強していたが、その前にタンザニアに留学していたのでスワヒリ語が話せる。小生が訪問したのは戸田さんがワタムに着任して半年も経っていない時期であったが、得意のスワヒリ語を駆使して既に地元の人々の中に溶け込み、海岸のゴミ拾い運動、マングローブの植林キャンペーンなど様々な活動を手掛けていた。戸田さんのやることはKWS公認のプロジェクトとなるので、地元の人々やホテルの協力が得られやすく、活動は順調に行われているようだ。戸田さんがこれから是非やりたいと思っているのは、地元の人々の収入向上を目指したプロジェクトで、エコバッグ、改良カマド、ビーズ細工の亀の製作など既にいくつかのアイディアを持っている。彼女によると、ワタムの人々は明るいのでとても楽しいとのことであった。




スペースの紙面の都合上、ごく一部のJICAボランティアに登場してもらったに過ぎないが、以上でボランティアの紹介を終えたい。最後に小生が彼らを訪問して感じたことをいくつか記しておきたい。
第1に、JICAボランティアは何があっても挫けたり、悲壮になったりせずに、明るく乗越えて楽しくやろうとしており、頼もしく感じた。多分、そうした心構えでないとやっていけないのであろう。
第2に、彼らはそれぞれに専門知識や経験を有しているが、決して威張ったりせずに、ケニア人の中に入って、ケニア人と同じ目線で物事を見たり考えたりしながら、知識や経験を伝えている。それがJICAボランティアがケニアの人々に受け入れられている理由であると感じた。
第3に、多くのJICAボランティアは教えるだけでなく、人との触れ合いの大切さ等、ケニア人から学ぶことも少なくないようである。
ともあれ、長年に亘る沢山のJICAボランティアの積み重ねが、ケニアの人々の「日本や日本人についてのイメージ作り」に多大の影響を有していることは間違いない。現在の日本の良いイメージを一層良くし、草の根レベルでも日ケニア友好関係が更に促進されるように、JICAボランティアの今後一層の活躍を大いに期待する次第である(写真はボランティア連絡所で開かれた歓送迎会に撮影したもので、左上は「新入ボランティアの自己紹介」、右上は「帰国ボランティアによる不用品のオークション」である)。
ケニアに派遣された協力隊員の数は本年7月末までの累計で1278名となり、これは全世界の協力隊派遣国の中で3番目に多い数である。2003年からはシニア海外ボランティア(SV)の派遣も始まり、SVは本年7月末までの累計で19名となった。
JICAボランティアの応募資格は協力隊員で20-39歳、SVで40-69歳であり、自分の技術や経験を途上国で活かしたいという強い意欲を持つ人が選ばれる。派遣期間は両者とも2年間である。この外に、派遣期間が短い短期ボランティア等も随時、派遣されている。
JICAボランティアはケニアに派遣される前に日本国内で語学や技術補完のために2ヶ月間の泊り込み研修を受ける。彼らはケニアに派遣されると、まず、ナイロビ市内のボランティア連絡所(右上の写真)に宿泊し、JICAケニア事務所でオリエンテーションを1週間受ける。同連絡所は相部屋で、蚕棚式の2段ベッドで寝ることになる(左の写真)。
その後、JICAボランティアは日本アフリカ文化交流協会(右の写真)に移り、協力隊員は1ヶ月間、SVは2週間、泊り込みでスワヒリ語の研修を受ける。ちなみに、同協会の前身は日本人向けのスワヒリ語学校として有名な星野学校である。JICAボランティアはこうした3ヶ月間前後に及ぶ準備期間を経て、それぞれの任地に赴くことになる。
JICAボランティアは着任と離任の際に大使である小生に対する表敬訪問にやってくる。小生も時折ボランティアの活動の視察と激励のためにケニア各地で働く彼らを訪問している。以下では、小生が訪問して話を聞いた何人かのボランティアを紹介することとしたい。なお、紹介は訪問した時点での記録に基づいており、現在では既にケニアを離れたボランティアもいることを予めお断りしておきたい。
ナイロビ勤務のJICAボランティアから紹介を始めると、まず、ケニア国立博物館でコンピューターの専門家として働いている青年協力隊員の「小林英之」君である(下の写真、左)。彼は主として同博物館の構内LAN拡張と再構築、新規サーバー導入と設定・利用といったネットワーク関係の仕事を担当している。彼は日本でシステム・エンジニア(SE)であったのでコンピューター関係の豊富な知識と経験を有しており、トラブル・シューターとして、同博物館の同僚のみならず、ケニアに住む全JICA関係者に頼られる存在でもある。彼によると、ケニア人の同僚は高いレベルの知識や技術を有しているものの、応用力が必要なトラブルを処理する経験が欠けており、同僚と一緒に作業をして自分の経験を伝えているとのことであった。
ナイロビ国立公園の動物孤児院では、短期ボランティアの「大木奈美」さんが獣医として働いている(同、真ん中)。彼女はかつてマラウィで協力隊員として家畜関係の獣医をしていたこともあり、アフリカは2度目である。5歳の頃からゾウとライオンのお医者さんになりたいとの夢を抱いていたので、今回は正にその夢が叶ったわけである。彼女は6人のケニア人飼育係と一緒に働いているが、真面目で素朴だったマラウィ人と異なり、ケニア人はもっと洗練されていてジョークも上手なので、愉快な付き合いができるとのことであった。
ケニア観光局(KTB)では、SVの「吉田攻一」さんが日本の観光市場の分析と戦略の構築を行っている(同、右)。吉田さんは英国系商社や京都府庁で観光関係の仕事をしていた経験を活かして、中央アジアのキルギスで観光業のSVを1年間やった。ただ、1年間ではやり残したことが多く、ケニアでの観光SVを応募した由である。ケニアは観光資源が多く、政府も観光客誘致に熱心なので、仕事はやりがいがあり、楽しいとのことであった。日本向けの戦略は数より質を重視し、余裕のあるベービー・ブーマーや新婚旅行客を主たる対象にする方針とのことである。
次にナイロビ近郊に移り、ルイルのケニア刑務所職員訓練校では、SVの「前田政博」さんが柔道を教えている(下の写真、左)。前田さんは福岡県警の出身で、柔道は7段の猛者である。県警退官後、大学で柔道師範をしていたが、電車に乗車中にJICA・SVの吊り広告を見て、柔道で国際貢献をしたいとの強い思いに駆られ、SVを応募した。英語の特訓を受け、健康診断をパスするため10kg減量するといった努力の後、トルコでのSVを経て、ケニアに来た。両国とも親日的で住みやすいが、ケニア人はトルコ人に比してあきらめが早く、根性が足りないとのことであった。なお、前田さんはルイルの少年柔道クラブも指導しており、礼儀や正しい心の大切さを教えている。
ティカの更正院では、協力隊員の「大井上啓志」君が野菜栽培を指導している(同、真ん中。なお、以下に登場するボランティアは全て協力隊員であるので肩書きを省略する)。彼は若い内に海外に行きたいとの希望を持っていたので、農大を卒業すると直ちに協力隊を応募してケニアに来た。更正院には様々な背景を持った児童がいるが、分け隔てなく一緒に働いて、児童達から信頼されている。収穫した野菜は更正院内の給食にも使われ、児童の栄養が格段に向上したそうだ。彼は又、児童に体育や美術も教えている。彼自身も苦しんでいる時にケニア人の同僚や児童に助けてもらったり、彼らからコミュニティの大切さを学んだりしているとのことであった。
キリマンボコの初等教員養成大学では、「石島裕太」君がコンピューターを教えている(同、右)。彼は日本の大学で理科の教員免許を取得し、大学を卒業後、直ちにケニアに来た。理科を教える筈が、ケニア教育省の急な要請変更に伴い、コンピューターを教えることとなった。悩んだ末に職場の同僚に対して、コンピューターの専門家でないことを告白し、その上で、書物による猛烈な勉強と同僚による支援により、短期間で一人前のコンピューター担当教師となった。彼は英語も含めて全てがチャレンジだが、機会が与えられたことやケニア人が自分を受け入れてくれたことに深く感謝しており、日本では失われつつある人との触合いの大切さを学んでいる由であった。
「森川君」は日本で健康食品の会社の研究員をやっていたが、大学の先輩が協力隊員としてラオスに行ったのに触発されて、協力隊員を応募した。ナクル湖は河川の流入のみで流出のない閉鎖水域であり、その周囲も含めたナクル国立公園はフェンスで囲まれた閉鎖的な生態系を形成している。森川君はこの特異な生態系に生息する動植物の個体数や相関関係を調査し、生息環境を作る雨量や水質の分析するなどの仕事を行っている。彼の功績はこれまで紙に記録されていたデータをコンピューター化したことであり、これによりデータの分析や交換が容易になった。彼は河川の水量の測定中にヒョウに異常接近したといった危ない目に遭ったこともあるが、仕事は楽しくてしょうがないとのことであった。
「五反田さん」は日本で専門商社やコンピューター関係の会社に勤務していたが、友人から自然の素晴らしさを教わり、森林インストラクターの資格を取った。その後、途上国の自然を守りたいとの思いが募り、協力隊に応募した。ナクルでは得意のパワーポイントを駆使して公立学校の児童生徒や地域住民に対する環境教育を実施する外、教材や展示物の改訂などを行っている。五反田さんはナクル国立公園内にあるKWSの宿舎に住んでいる。その宿舎にサファリ・アントという物騒な蟻が大量に入り込んで体をあちこち咬まれたとか、バブーン(ヒヒ)に宿舎の水タンクを壊され、中にウンチまでされてしまったとかの痛い経験もしたが、やはり仕事はとても楽しいとのことであった。
ナクルから更に西に行ったニャミラ県の保健事務所では、「松岡裕子」さんがエイズ対策のために頑張っている(下の写真、左)。松岡さんは日本の大学時代から社会福祉関係のNGO活動に従事していたが、卒業後も特定NPOに就職して日本に住む外国人の生活をサポートする仕事に携わった。協力隊員は小学校時代からの夢で、今回その夢を叶えてケニアに来たわけである。ニャミラではエイズの予防と治療の両方の活動を担当しており、地域住民に対してエイズに関する正しい知識を普及させる啓発活動を行うとともに、VCTセンター(自発的な相談と検診のための施設)・移動VCTや感染者のケア・センターでも働いている。やりがいがある仕事だが、ニャミラは人付き合いが余りにも濃密なため、人間関係の難しさに悩むこともある由である。
今後は逆に東方向に向かい、インド洋岸のコースト地方に行くと、マリンディ海洋国立公園のKWSで「多賀良太」君が環境教育を担当している(同、真ん中)。多賀君は日本の大学で多様性生物学を初めとする地球環境問題を勉強した後、見識を広めるために協力隊員を応募して、ケニアに来た。彼の前任者は主としてJICAが供与したグラスボートを使って小中学生に環境教育を施していたが、彼はマリンディ国立公園では環境教育以前にやるべきことが少なくないことに気が付いた。例えば、公園のガイド・ブックが無い、KWSの同僚はサファリについては詳しくても海洋生物については無知で、溺れた人の救命法も知らない等である。そこで彼は自発的に、マリンディの海やそこに住む生物のガイド・ブックを作る、救命法のトレーニングを企画するなどの貢献を行っている。
やはりコースト地方のワタム海洋国立公園のKWSでは、「戸田佳絵」さんが村落開発普及員として働いている(同、右)。戸田さんはケニアに来る前は日本の専門学校で動物の飼育・調教を勉強していたが、その前にタンザニアに留学していたのでスワヒリ語が話せる。小生が訪問したのは戸田さんがワタムに着任して半年も経っていない時期であったが、得意のスワヒリ語を駆使して既に地元の人々の中に溶け込み、海岸のゴミ拾い運動、マングローブの植林キャンペーンなど様々な活動を手掛けていた。戸田さんのやることはKWS公認のプロジェクトとなるので、地元の人々やホテルの協力が得られやすく、活動は順調に行われているようだ。戸田さんがこれから是非やりたいと思っているのは、地元の人々の収入向上を目指したプロジェクトで、エコバッグ、改良カマド、ビーズ細工の亀の製作など既にいくつかのアイディアを持っている。彼女によると、ワタムの人々は明るいのでとても楽しいとのことであった。
第1に、JICAボランティアは何があっても挫けたり、悲壮になったりせずに、明るく乗越えて楽しくやろうとしており、頼もしく感じた。多分、そうした心構えでないとやっていけないのであろう。
第2に、彼らはそれぞれに専門知識や経験を有しているが、決して威張ったりせずに、ケニア人の中に入って、ケニア人と同じ目線で物事を見たり考えたりしながら、知識や経験を伝えている。それがJICAボランティアがケニアの人々に受け入れられている理由であると感じた。
第3に、多くのJICAボランティアは教えるだけでなく、人との触れ合いの大切さ等、ケニア人から学ぶことも少なくないようである。
ともあれ、長年に亘る沢山のJICAボランティアの積み重ねが、ケニアの人々の「日本や日本人についてのイメージ作り」に多大の影響を有していることは間違いない。現在の日本の良いイメージを一層良くし、草の根レベルでも日ケニア友好関係が更に促進されるように、JICAボランティアの今後一層の活躍を大いに期待する次第である(写真はボランティア連絡所で開かれた歓送迎会に撮影したもので、左上は「新入ボランティアの自己紹介」、右上は「帰国ボランティアによる不用品のオークション」である)。
ウガンダはかつて英国のチャーチル首相が「アフリカの真珠」と呼んで、その美しさを讃えた国である。小生はそのウガンダを訪問外国数でのエージシュート達成の国として選び、先日、2泊3日の旅に出掛けてきたので、その概要を紹介したい。

ウガンダはケニアの西隣の内陸国で、国土面積はほぼ本州大、人口は2880万人(2005年)である(左の地図参照)。ヴィクトリア湖やキョガ湖を初めとする湖や河川が多く、豊かな水と緑に恵まれた国である。国土の大部分は海抜1200m程度の平地に近い広大な高原地帯で、気候は温暖で降雨量は多く、土地は肥えている。チャーチルはこのウガンダを「おとぎの国」、「地上の楽園」、「アフリカの真珠」などと絶賛した。ウガンダの国鳥はアフリカで最も美しい鳥と言われる「カンムリヅル」で、国旗にもカンムリヅルが描かれている(右上の国旗参照)。
ウガンダには10世紀頃から様々な部族が移住してきて、いくつかの王国が生れたが、19世紀に入るとブガンダ王国が強大となった。19世紀後半から欧諸国が侵入し、英が1898年にブガンダ王国を保護領化した。第2次大戦後、1962年に独立を認められ、1963年にブガンダ王ムテサ?世を大統領とする共和国となった。ところが、1966年にオボテ首相がクーデターを起こしてムテサ?世を追放、それ以降20年もの間、度重なるクーデターにより内政の混乱が続いた。特に1971-79年のアミン大統領はアジア人の追放や反対派の大量虐殺を行った軍事独裁恐怖政治の張本人として国際的にも悪名が高い。
このウガンダの混乱は1986年にクーデターで実権を掌握したムセベニ現大統領(右の写真)によって漸く終止符が打たれた。彼は国内に平和と安定をもたらすとともに、国際機関や先進国の支援を得て経済の再建と開発に取り組み、着実に成果を挙げている。昨年やや強引に三選を果たしたが、彼が長期政権に伴う独裁化の過ちに陥らず、ウガンダの更なる発展に向けて引続き指導力を発揮し続けるよう期待したい。
小生が今回訪れたのは首都のカンパラと白ナイルの源流の町ジンジャである。最初のカンパラはヴィクトリア湖を見下ろすなだらかな7つの丘からなる町で、平均の海抜は1150mである。人口120万人の近代的な大都会であるが、治安はナイロビより遥かに良好で、昼間なら徒歩で街を歩き回れるのが嬉しかった。
カンパラの見所として、まず、挙げられるのは世界文化遺産となっているブガンダ王の墓所である。この墓所はカスビ・ヒルにあり、カバカと呼ばれたブガンダの歴代国王の内、最後の4代の国王が祀られている。この墓所はもともとはここに葬られた最初の国王であるムテサ?世(1835-84)の王宮であり、藁葺き屋根の建物としては世界最大の建物とのことであった。
1966年のクーデターで追放されたブガンダの王族は追放後に英国に移り住んでいたが、1993年にムセベニ大統領により復位が図られ、現在はブガンダ地方(ウガンダ南部)の文化的・歴史的な象徴としての役割を果たしている。
(下の写真は左から「郊外の丘から見たカンパラ中心部」、「カバカの墓所」、「現在修復中の新しい王宮」)



マケレレ大学は1922年に専門学校としてカンパラに設立された東アフリカで最古の名門大学である。同大学はタンザニアのニエレレ初代大統領、ウガンダのオボテ大統領、ケニアのキバキ現大統領など多くのアフリカの指導者を輩出している。そのキャンパスは広大で、現在は学部で3万人、大学院で4千人の学生が勉学に励んでいる(右の写真は「マケレレ大学本部の建物」)。
ウガンダ国民の60%がキリスト教徒であり、カンパラの7つの丘の一つであるルガバ・ヒルにはカソリックの教会、ナミレンベ・ヒルにはプロテスタントの教会が建っている。この2つの教会はそれぞれの信者の信仰の中心であるとともに、観光客にも開放されている。また、教会のある丘からはカンパラの町が良く見渡せる。
その他のカンパラの見どころとしては、ウガンダ博物館、美術館、国立劇場、国会議事堂などが挙げられるが、必見と言うほどのものではない。
(下の写真は左から「ルバガ・ヒルのカソリック教会」、「ナミレンベ・ヒルのプロテスタント教会」、「国会議事堂」)



小生の次の訪問地であるジンジャはカンパラから東に80kmほどにあるウガンダ第2の都市である。カンパラから行くとジンジャの手前にナイル川を堰き止めて作った世界最大級の水力発電ダムであるオーウェン・フォール・ダムがある。このダムは残念ながら写真撮影禁止であった。
オーウェン・フォールズ・ダムの下流にはブジャガリ滝という高さはないが水量豊かな急流が数本ある(右の写真)。この滝はラフティング(川下り)やカヤックのコースの出発点となっている外、滝の付近にはキャンプ・サイトもあり、ちょっとした観光スポットとなっている。
ジンジャでお目当ての見どころである白ナイルの源流へは町から南西に3kmほど離れた「ナイルの源流庭園」から船で行くことができる。その船着場に降りる道の入口には「ナイル川源流の碑」が設置されており、その碑には「この地点はナイル川がウガンダ、スーダン、エジプトを経て地中海に至る長い旅を始める場所を記念している」と記されていた。
船着場の手前にはインド独立の英雄で無抵抗主義で名高いガンジーの胸像が建てられていた。ガイドによれば、ガンジーは死後自分を焼いた灰をナイルの源流にも撒くように遺言したので、この胸像が建てられたとのことであった。
さて、船着場から小さな船に乗ってナイル川をヴィクトリア湖方向に10分ほど遡ると小さな島と対岸との間に川底からフツフツと水が湧き出ている場所がある。その場所こそが18世紀半ばヨーロッパの何人もの探検家が必死になって捜し求めたナイルの源流である。なるほど、その場所を境にヴィクトリア湖側の水面は静かで動きが無い一方で、反対側では水が緩やかにナイル川に流れ出す動きが見られる。
ここで湧き出た水が世界最長である6700kmのナイル川を3ヶ月間かけてアフリカ大陸中北部縦断の旅をして地中海に流れ込んで行くと思うと感無量の思いがする一方で、正直な所、「何だ、こんな所だったのか」という気もしないでもなかった。
(下の写真は左から「ガンジーの胸像」、「ナイル源流の碑(クリックすると碑文が読める)」、「ナイルの源流のバックにした小生(クリックすると水が湧き出ている様子が分かるかも」)



ナイルの源流庭園の対岸にはスピーク・メモリアル(記念碑)と名付けられた塔が建てられている。ガイドによれば、英国の探検家スピークは様々な苦労の末、1862年7月28日に記念碑が建てられている地点からナイルの源流を発見したとのことであった。なお、対岸にはアンコレ牛と呼ばれる特大の角を持った牛が悠々と草を食べていた。この牛はウガンダで良く飼われている牛で、見かけはともかく、性格は至っておとなしいようである。
(下の写真は左から「スピーク・メモリアル」、「スピークの写真」、「アンコレ牛」)




ウガンダでは上記の外、日本人の柏田さん(左の写真)が社長をされているフェニックス社を訪問する機会を得た。同社は有機綿の布地やそれを使った最高級のワイシャツ・下着等の製品を製造し、主として欧米諸国に輸出している。柏田社長は2回のウガンダ滞在を合わせると合計で28年間ウガンダに住み、ウガンダ人の社員を訓練して、世界市場に通用する高品質のアパレル製品を作れるようにした熱意と忍耐とヴィジョンをお持ちの企業経営者である。
柏田社長のウガンダとの関わりを年表スタイルで整理すれば、「1960年にシャツ・メーカーである日本のヤマト社の社員時代に初めて独立前のウガンダを訪問→1965年にウガンダと合弁でカンパラにシャツの縫製会社ユージルを立ち上げて20年間成功裏に経営→1985年にウガンダ政府の会社経営への過剰介入のため止む無く撤退→1993年にムセベニ大統領から当時ヤマトの副社長であった柏田さんに再度ウガンダに進出するよう強い要請あり(ユージル社はその年に倒産)→相談役になったのを契機に2000年に再進出を決意してフェニックス社を設立し操業開始→2002年にオーガニック・コットン(有機綿)のみを使う方針に切替えて欧米向けの輸出が増加させ現在に至る」となる(右はフェニックス社の縫製作業場)。
柏田社長のお話は誠に興味深かったが、スペースの都合上、次の3つのエピソードを紹介するだけに留めたい。?1960年のウガンダ初訪問の際に、ウガンダは当時の日本より豊かな国であることを実感、ウガンダ人は食べ物に困らないのでヤマトの最高級シャツを買っておしゃれを競っていた、?アミンは左傾化しつつあったオボテ政権を覆すために英米が担ぎ出した人物、彼は実は誠実なウガンダ思いの軍人大統領で友人の柏田社長との約束は必ず守った、?アミン大統領が国外に追われた後、カンパラでは略奪の嵐が吹き荒れたが、ウガンダ経済や雇用に多大の貢献をしていた柏田社長の自宅だけは近所のウガンダ人が結束して略奪から守ってくれた。
以上が小生夫妻のウガンダ訪問記であるが、ウガンダには雄大で美しい景色の場所がもっと沢山あり、我々が訪問した場所はごく一部に過ぎない。それでも、水と緑に恵まれた環境の中で総じて穏やかでフレンドリーな国民が住むウガンダの魅力を少しは味わうことができた。
小生にとってウガンダは60番目に訪問した外国で、冒頭に記したように、現在60歳の小生は訪問外国数のエージシュートを達成することができた。しかし、これでも世界の国の総数192(国連加盟国数)の3分の1にも満たない。訪問国数を増やすことだけを目標にしているわけではないが、好奇心旺盛な小生としては今後とも新たに違った外国を訪問して、多様な世界をもっと良く見たい、知りたいと思っている。

(追記)先日、津高40会々員の金谷君と奥様が遥々とケニアに来てくれた。彼らはナイロビの外、アンボセリ国立公園、マサイマラ国立保護区、ナクル湖、ナイバシャ湖とケニアの主要な観光地を見て回り、ヒョウも含めたビッグ・ファイブ(ヒョウも入れるとビッグ・シックスだが)にもしっかりと出会って、サファリを堪能したようである。ただ、サファリのロッジはシャワーしかなく、また、洋食が続くので、金谷君は浴槽と和食が恋しくなった由であった。
金谷君とは津高入学から数えて、45年来のお付き合い。その2人が津から遠く離れたナイロビで再会して、来し方・近況・行く末を語れるのは2人が健康であるお蔭であろう。2人は(できれば早足で)歩くことの健康にとっての重要性を論じつつ、ケニアのビールで乾杯した次第である(左の写真。右の写真は「ジラフ・センターでキリンと遊ぶ金谷夫妻」)。
このウガンダの混乱は1986年にクーデターで実権を掌握したムセベニ現大統領(右の写真)によって漸く終止符が打たれた。彼は国内に平和と安定をもたらすとともに、国際機関や先進国の支援を得て経済の再建と開発に取り組み、着実に成果を挙げている。昨年やや強引に三選を果たしたが、彼が長期政権に伴う独裁化の過ちに陥らず、ウガンダの更なる発展に向けて引続き指導力を発揮し続けるよう期待したい。
小生が今回訪れたのは首都のカンパラと白ナイルの源流の町ジンジャである。最初のカンパラはヴィクトリア湖を見下ろすなだらかな7つの丘からなる町で、平均の海抜は1150mである。人口120万人の近代的な大都会であるが、治安はナイロビより遥かに良好で、昼間なら徒歩で街を歩き回れるのが嬉しかった。
カンパラの見所として、まず、挙げられるのは世界文化遺産となっているブガンダ王の墓所である。この墓所はカスビ・ヒルにあり、カバカと呼ばれたブガンダの歴代国王の内、最後の4代の国王が祀られている。この墓所はもともとはここに葬られた最初の国王であるムテサ?世(1835-84)の王宮であり、藁葺き屋根の建物としては世界最大の建物とのことであった。
1966年のクーデターで追放されたブガンダの王族は追放後に英国に移り住んでいたが、1993年にムセベニ大統領により復位が図られ、現在はブガンダ地方(ウガンダ南部)の文化的・歴史的な象徴としての役割を果たしている。
(下の写真は左から「郊外の丘から見たカンパラ中心部」、「カバカの墓所」、「現在修復中の新しい王宮」)
ウガンダ国民の60%がキリスト教徒であり、カンパラの7つの丘の一つであるルガバ・ヒルにはカソリックの教会、ナミレンベ・ヒルにはプロテスタントの教会が建っている。この2つの教会はそれぞれの信者の信仰の中心であるとともに、観光客にも開放されている。また、教会のある丘からはカンパラの町が良く見渡せる。
その他のカンパラの見どころとしては、ウガンダ博物館、美術館、国立劇場、国会議事堂などが挙げられるが、必見と言うほどのものではない。
(下の写真は左から「ルバガ・ヒルのカソリック教会」、「ナミレンベ・ヒルのプロテスタント教会」、「国会議事堂」)
オーウェン・フォールズ・ダムの下流にはブジャガリ滝という高さはないが水量豊かな急流が数本ある(右の写真)。この滝はラフティング(川下り)やカヤックのコースの出発点となっている外、滝の付近にはキャンプ・サイトもあり、ちょっとした観光スポットとなっている。
ジンジャでお目当ての見どころである白ナイルの源流へは町から南西に3kmほど離れた「ナイルの源流庭園」から船で行くことができる。その船着場に降りる道の入口には「ナイル川源流の碑」が設置されており、その碑には「この地点はナイル川がウガンダ、スーダン、エジプトを経て地中海に至る長い旅を始める場所を記念している」と記されていた。
船着場の手前にはインド独立の英雄で無抵抗主義で名高いガンジーの胸像が建てられていた。ガイドによれば、ガンジーは死後自分を焼いた灰をナイルの源流にも撒くように遺言したので、この胸像が建てられたとのことであった。
さて、船着場から小さな船に乗ってナイル川をヴィクトリア湖方向に10分ほど遡ると小さな島と対岸との間に川底からフツフツと水が湧き出ている場所がある。その場所こそが18世紀半ばヨーロッパの何人もの探検家が必死になって捜し求めたナイルの源流である。なるほど、その場所を境にヴィクトリア湖側の水面は静かで動きが無い一方で、反対側では水が緩やかにナイル川に流れ出す動きが見られる。
ここで湧き出た水が世界最長である6700kmのナイル川を3ヶ月間かけてアフリカ大陸中北部縦断の旅をして地中海に流れ込んで行くと思うと感無量の思いがする一方で、正直な所、「何だ、こんな所だったのか」という気もしないでもなかった。
(下の写真は左から「ガンジーの胸像」、「ナイル源流の碑(クリックすると碑文が読める)」、「ナイルの源流のバックにした小生(クリックすると水が湧き出ている様子が分かるかも」)
ナイルの源流庭園の対岸にはスピーク・メモリアル(記念碑)と名付けられた塔が建てられている。ガイドによれば、英国の探検家スピークは様々な苦労の末、1862年7月28日に記念碑が建てられている地点からナイルの源流を発見したとのことであった。なお、対岸にはアンコレ牛と呼ばれる特大の角を持った牛が悠々と草を食べていた。この牛はウガンダで良く飼われている牛で、見かけはともかく、性格は至っておとなしいようである。
(下の写真は左から「スピーク・メモリアル」、「スピークの写真」、「アンコレ牛」)
柏田社長のウガンダとの関わりを年表スタイルで整理すれば、「1960年にシャツ・メーカーである日本のヤマト社の社員時代に初めて独立前のウガンダを訪問→1965年にウガンダと合弁でカンパラにシャツの縫製会社ユージルを立ち上げて20年間成功裏に経営→1985年にウガンダ政府の会社経営への過剰介入のため止む無く撤退→1993年にムセベニ大統領から当時ヤマトの副社長であった柏田さんに再度ウガンダに進出するよう強い要請あり(ユージル社はその年に倒産)→相談役になったのを契機に2000年に再進出を決意してフェニックス社を設立し操業開始→2002年にオーガニック・コットン(有機綿)のみを使う方針に切替えて欧米向けの輸出が増加させ現在に至る」となる(右はフェニックス社の縫製作業場)。
柏田社長のお話は誠に興味深かったが、スペースの都合上、次の3つのエピソードを紹介するだけに留めたい。?1960年のウガンダ初訪問の際に、ウガンダは当時の日本より豊かな国であることを実感、ウガンダ人は食べ物に困らないのでヤマトの最高級シャツを買っておしゃれを競っていた、?アミンは左傾化しつつあったオボテ政権を覆すために英米が担ぎ出した人物、彼は実は誠実なウガンダ思いの軍人大統領で友人の柏田社長との約束は必ず守った、?アミン大統領が国外に追われた後、カンパラでは略奪の嵐が吹き荒れたが、ウガンダ経済や雇用に多大の貢献をしていた柏田社長の自宅だけは近所のウガンダ人が結束して略奪から守ってくれた。
以上が小生夫妻のウガンダ訪問記であるが、ウガンダには雄大で美しい景色の場所がもっと沢山あり、我々が訪問した場所はごく一部に過ぎない。それでも、水と緑に恵まれた環境の中で総じて穏やかでフレンドリーな国民が住むウガンダの魅力を少しは味わうことができた。
小生にとってウガンダは60番目に訪問した外国で、冒頭に記したように、現在60歳の小生は訪問外国数のエージシュートを達成することができた。しかし、これでも世界の国の総数192(国連加盟国数)の3分の1にも満たない。訪問国数を増やすことだけを目標にしているわけではないが、好奇心旺盛な小生としては今後とも新たに違った外国を訪問して、多様な世界をもっと良く見たい、知りたいと思っている。
金谷君とは津高入学から数えて、45年来のお付き合い。その2人が津から遠く離れたナイロビで再会して、来し方・近況・行く末を語れるのは2人が健康であるお蔭であろう。2人は(できれば早足で)歩くことの健康にとっての重要性を論じつつ、ケニアのビールで乾杯した次第である(左の写真。右の写真は「ジラフ・センターでキリンと遊ぶ金谷夫妻」)。
ラム島の旧市街はケニアで世界文化遺産に登録されている唯一の場所である。先日、そのラム島を訪問して、旧市街を観光するとともに、ラム島周辺のクルーズを楽しんできたので、その様子をご紹介したい。
小生が見るところ、ケニアには世界遺産に値する多くの場所があるが、ケニア政府が登録申請に熱心でないためか、これまでに世界遺産に登録されているのは、自然遺産としてケニア山国立公園とトゥルカナ湖国立公園群、文化遺産としてラム旧市街の計3箇所に過ぎない。
ケニア唯一の文化遺産を擁するラム島はケニア東部のインド洋沿岸に浮かぶ小さな島で、モンバサから約300km北上した地点にある。ラム島から更に北へ約100km行くと、もうソマリア国境に達する。
ラム旧市街は14-15世紀にアラブ人が交易のために築いた街である。交易先は当初はアラブ圏であったが、17-19世紀になると、ヨーロッパ、アメリカ新大陸、インド、中国にも拡大し、特に象牙と奴隷の輸出の中継地として大いに栄えた。この繁栄期、特に19世紀にスワヒリ・ハウスと呼ばれるイスラム風の立派な建物が沢山作られた。ちなみに、スワヒリとは、アラブ語で「海岸に住む人」という意味であるが、アラブの影響を受けた東アフリカの文化や言語を指す言葉としても使われる。
ラムの繁栄は英国が1873年に奴隷市場の閉鎖を命じたため突然に終止符が打たれた。その後、ラムの経済は急速に縮小し、ラム島は開発にも取り残され忘れられた辺境の島となっていた。しかし、1970年代から観光地として徐々に注目を浴びるようになり、2001年にはラム旧市街がユネスコの世界文化遺産として登録された。
小生夫婦はナイロビから軽飛行機で約1時間半飛んで、滑走路のある隣のマンダ島に入り、そこからモーター船に10分間ほど乗ってラム島の港に到着した(右上はラム島をモーター船上から撮った写真)。
ラム旧市街は縦1000m、横300mの長方形に収まってしまうほどの小さな地区であり、治安も良いので、容易に徒歩で観光できる。というより、ラム島ではそもそも法令で車の持込みが禁止されていて、地区長官用のジープがたった1台あるだけなので、車の使いようがない。それに、車が通れるほどの広さがある道は海岸沿いの通りだけである。
下の最初の2枚の写真はハランベー通りという名のラム旧市街のメイン・ストリートであるが、ご覧のようにリヤカーがようやく通れる程度の広さしかない。ラム島では車が無いので、リヤカーや次の写真のロバが荷物を運ぶ手段となっている。旧市街にはこうした細い路地が迷路のように入り組んでおり、これは侵入者から町を守るためであると言われている。少し前にモロッコとチュニジアに訪れた小生には両国のメディナ(旧市街)を思い出させるものがあり、アラブ人やイスラム教徒の都市作りの好みや伝統を反映していると感じた。なお、タンザニアのザンジバルは同様なイスラム風の旧市街がある東アフリカの島として知られている。
旧市街を歩いていると、下の右の写真に見られるような立派な扉の入口を備えた家を数多く見かける。この扉は厚い木板に彫刻を施したものであり、その多くはラム島繁栄期の19世紀に作られたスワヒリ・ハウスの入口の扉である。



ラム旧市街の見どころとして挙げられるのは、まず、ラム博物館である。その入口横の庭にはその昔に大英帝国が使った真鍮製の大砲が置かれている(右の写真)。館内の展示物はラム島の文化や歴史を知る上で役に立つものが多い。例えば、東アフリカでも他にない展示物としてスィワと呼ばれる笛の形をした象牙製と真鍮製の楽器もある(下の左の写真)。スィワは長さが5mもあり、支配者のシンボルとしての役割も果たしていたとのことである。
次のスワヒリ家屋博物館は18世紀に建てられたスワヒリ・ハウスを博物館にしたものである。展示品としてはベッドや椅子を始めとする家具、中国から輸入した食器類などがあり、当時の豊かな暮し振りをしのぶことができる(下の真ん中の写真)。
ラム砦環境博物館は1823年に当時のスルタン(イスラムの領主)によってラムを守る砦として作られたものである。見るべき展示物は少ないが、屋上レベルの回廊や見張り用の塔を含めた建物は大きくて立派である(下の右の写真)。



ラム島の住民の大部分はイスラム教徒であり、旧市街には多くのモスクがある。下の左の写真はラムで最も古いプワニ・モスクである。このモスクは14世紀末に建てられたが、外観は普通の建物のようである。下の真ん中の写真はサウジ・アラビアの援助によって建てられたリヤド・モスクであり、小生が見たラム島のモスクの中では最も立派なものであった。
ラム島は暑くて湿気も高いためか、島の住民は余り働いている様子がない。その中で最も良く働いているのはロバである。ロバは大人しく文句も言わずに、荷物も人間をも運んでいる。そのロバのために、ラム旧市街には「ロバの聖域」なる施設が作られており、無料でロバの病気や怪我の治療が受けられる(下の右の写真)。




ラム旧市街の観光は一日もあれば十分である。このため、ラム島の宿泊ホテルでは当然といった顔つきでダウ船による周辺の海でのクルージングを勧められる。このオプショナル・クルージング・ツアーには若干の選択肢があったが、我々は「マンダ島のマングローブ鑑賞とマンダ小島(マンダ・トト)周辺でのシュノーケリング」と「ラム島シェラの海からの鑑賞とマンダ島のビーチ並びにタクワ遺跡の見学」の2つのツアーを組み合わせることとした。
左上の写真は我々が乗った観光用のダウ船である。ダウ船は元々はアラブの帆船であるが、観光用の船は速度や操作性を考慮して、帆を外してモーターで動くようにしている。しかし、クルーズの途中で右上の写真のような昔ながらの本格的なダウ船に何隻も出会った。三角帆に風を受けて走るダウ船の姿は誠に優雅で格好良くて美しかった。

ラム島を出てマンダ島に近づくと左の写真のようなマングローブの林が見えてきた。ご承知のように、マングローブは塩水の湿地に育成する熱帯・亜熱帯地方の樹木の総称である。東南アジアでは海老の養殖のためマングローブ林の過剰伐採が問題になっていたが、マンダ島は砂浜となっている場所を除くと周囲を豊かなマングローブ林で覆われている様子で、津波などの災害防止や地球環境保護の観点からとても好ましく感じた。
マンダ小島周辺には美しい珊瑚礁があり、潜ると泳ぎ回る色とりどりの美しい熱帯魚を観賞できる。熱帯魚の密度は小生がかつて潜ったことがある沖縄の慶良間諸島付近の海以上ではないかと思われるが、水中カメラが無いので、その様子を写真で読者にお見せできないのは誠に残念である。
ラム島には旧市街から南へ3kmほど行ったところにシェラと言う海洋リゾートの町がある。右上の写真の海岸沿いの白い建物はペポニ(天国)・ホテルと言う名の最高級リゾート・ホテルである。シェラには白砂のビーチもあり、シーズンには欧米から沢山の観光客がやって来るとのことであった。
シェラを観光ダウ船から眺めながら、我々が上陸したのは、その近くにあるマンダ島のマンダ・ビーチである。そこでは昼食を取るだけで泳ぐ時間は無かったものの、砂浜や海は自然そのもので誠に美しかった(下の左の写真)。
次の上陸地点はマンダ島のタクワ遺跡である。タクワには15-17世紀にスワヒリ・タウンがあり、ピーク時には2500名もの人々が住んでいた。しかし、17世紀後半に、住民は何らかの理由で(水不足と推測されている)タクワの町を放棄して、シェラに移住した。遺跡は相当傷んではいるが、下の真ん中の写真のジャマー・モスクやその右の写真のピラー・トゥーム(柱墓)はなかなか立派な建造物であった。また、タクワにはびっくりするほど大きなバオバオの木が生えていたが、それらの木の樹齢はタクワの繁栄期頃にまで遡るとのことであった。
小生のラム島訪問記は以上の通りであるが、世界文化遺産のラム旧市街の観光とラム島周辺の海のクルージングという組合せのラム島ツアーは、今後のプロモーション活動次第では、ケニアに一層の観光客を惹きつける潜在力を秘めていると感じた。



ケニア唯一の文化遺産を擁するラム島はケニア東部のインド洋沿岸に浮かぶ小さな島で、モンバサから約300km北上した地点にある。ラム島から更に北へ約100km行くと、もうソマリア国境に達する。
ラム旧市街は14-15世紀にアラブ人が交易のために築いた街である。交易先は当初はアラブ圏であったが、17-19世紀になると、ヨーロッパ、アメリカ新大陸、インド、中国にも拡大し、特に象牙と奴隷の輸出の中継地として大いに栄えた。この繁栄期、特に19世紀にスワヒリ・ハウスと呼ばれるイスラム風の立派な建物が沢山作られた。ちなみに、スワヒリとは、アラブ語で「海岸に住む人」という意味であるが、アラブの影響を受けた東アフリカの文化や言語を指す言葉としても使われる。
ラムの繁栄は英国が1873年に奴隷市場の閉鎖を命じたため突然に終止符が打たれた。その後、ラムの経済は急速に縮小し、ラム島は開発にも取り残され忘れられた辺境の島となっていた。しかし、1970年代から観光地として徐々に注目を浴びるようになり、2001年にはラム旧市街がユネスコの世界文化遺産として登録された。
小生夫婦はナイロビから軽飛行機で約1時間半飛んで、滑走路のある隣のマンダ島に入り、そこからモーター船に10分間ほど乗ってラム島の港に到着した(右上はラム島をモーター船上から撮った写真)。
ラム旧市街は縦1000m、横300mの長方形に収まってしまうほどの小さな地区であり、治安も良いので、容易に徒歩で観光できる。というより、ラム島ではそもそも法令で車の持込みが禁止されていて、地区長官用のジープがたった1台あるだけなので、車の使いようがない。それに、車が通れるほどの広さがある道は海岸沿いの通りだけである。
下の最初の2枚の写真はハランベー通りという名のラム旧市街のメイン・ストリートであるが、ご覧のようにリヤカーがようやく通れる程度の広さしかない。ラム島では車が無いので、リヤカーや次の写真のロバが荷物を運ぶ手段となっている。旧市街にはこうした細い路地が迷路のように入り組んでおり、これは侵入者から町を守るためであると言われている。少し前にモロッコとチュニジアに訪れた小生には両国のメディナ(旧市街)を思い出させるものがあり、アラブ人やイスラム教徒の都市作りの好みや伝統を反映していると感じた。なお、タンザニアのザンジバルは同様なイスラム風の旧市街がある東アフリカの島として知られている。
旧市街を歩いていると、下の右の写真に見られるような立派な扉の入口を備えた家を数多く見かける。この扉は厚い木板に彫刻を施したものであり、その多くはラム島繁栄期の19世紀に作られたスワヒリ・ハウスの入口の扉である。
次のスワヒリ家屋博物館は18世紀に建てられたスワヒリ・ハウスを博物館にしたものである。展示品としてはベッドや椅子を始めとする家具、中国から輸入した食器類などがあり、当時の豊かな暮し振りをしのぶことができる(下の真ん中の写真)。
ラム砦環境博物館は1823年に当時のスルタン(イスラムの領主)によってラムを守る砦として作られたものである。見るべき展示物は少ないが、屋上レベルの回廊や見張り用の塔を含めた建物は大きくて立派である(下の右の写真)。
ラム島の住民の大部分はイスラム教徒であり、旧市街には多くのモスクがある。下の左の写真はラムで最も古いプワニ・モスクである。このモスクは14世紀末に建てられたが、外観は普通の建物のようである。下の真ん中の写真はサウジ・アラビアの援助によって建てられたリヤド・モスクであり、小生が見たラム島のモスクの中では最も立派なものであった。
ラム島は暑くて湿気も高いためか、島の住民は余り働いている様子がない。その中で最も良く働いているのはロバである。ロバは大人しく文句も言わずに、荷物も人間をも運んでいる。そのロバのために、ラム旧市街には「ロバの聖域」なる施設が作られており、無料でロバの病気や怪我の治療が受けられる(下の右の写真)。
左上の写真は我々が乗った観光用のダウ船である。ダウ船は元々はアラブの帆船であるが、観光用の船は速度や操作性を考慮して、帆を外してモーターで動くようにしている。しかし、クルーズの途中で右上の写真のような昔ながらの本格的なダウ船に何隻も出会った。三角帆に風を受けて走るダウ船の姿は誠に優雅で格好良くて美しかった。
マンダ小島周辺には美しい珊瑚礁があり、潜ると泳ぎ回る色とりどりの美しい熱帯魚を観賞できる。熱帯魚の密度は小生がかつて潜ったことがある沖縄の慶良間諸島付近の海以上ではないかと思われるが、水中カメラが無いので、その様子を写真で読者にお見せできないのは誠に残念である。
ラム島には旧市街から南へ3kmほど行ったところにシェラと言う海洋リゾートの町がある。右上の写真の海岸沿いの白い建物はペポニ(天国)・ホテルと言う名の最高級リゾート・ホテルである。シェラには白砂のビーチもあり、シーズンには欧米から沢山の観光客がやって来るとのことであった。
シェラを観光ダウ船から眺めながら、我々が上陸したのは、その近くにあるマンダ島のマンダ・ビーチである。そこでは昼食を取るだけで泳ぐ時間は無かったものの、砂浜や海は自然そのもので誠に美しかった(下の左の写真)。
次の上陸地点はマンダ島のタクワ遺跡である。タクワには15-17世紀にスワヒリ・タウンがあり、ピーク時には2500名もの人々が住んでいた。しかし、17世紀後半に、住民は何らかの理由で(水不足と推測されている)タクワの町を放棄して、シェラに移住した。遺跡は相当傷んではいるが、下の真ん中の写真のジャマー・モスクやその右の写真のピラー・トゥーム(柱墓)はなかなか立派な建造物であった。また、タクワにはびっくりするほど大きなバオバオの木が生えていたが、それらの木の樹齢はタクワの繁栄期頃にまで遡るとのことであった。
小生のラム島訪問記は以上の通りであるが、世界文化遺産のラム旧市街の観光とラム島周辺の海のクルージングという組合せのラム島ツアーは、今後のプロモーション活動次第では、ケニアに一層の観光客を惹きつける潜在力を秘めていると感じた。
